富士山──
「霊峰」と崇めやうが、
「ダイヤモンド富士」などとカメラを手に手に押しかけお祭り騒ぎをしやうが、
そんな人間の思惑など関係なしに、常に噴火の可能性を孕んでゐる御山におはします。
その富士山が江戸時代の宝永年間に大噴火をしたとき、當時の人々はいかにこの災害を乗り越へたのか、その聲を訊きに、神奈川県立歴史博物館の特別陳列「古文書が語る富士山宝永噴火─神奈川県域の被災と復興─」展に行く。
近年、そしてこれからも打ち續くであらう自然災害は、もはや日常現象の域に達しやうとしてゐる。
そんな現今にいかに対処し生き延びるか、その参考になるものが得られたら、とかなり期待してゐたが、いざ残された古文書たちから聞こへてきたのは、古今変はらぬ復興対策のマズさだ。
宝永四年(1707年)十一月二十三日の午前十時頃、富士山は南東中腹から突然噴火、一帯にはテフラと云はれる岩砂などが降り積もり、農民の主食であった麦は全滅、菜っ葉や大根も絶望的となった。
約半月後の十二月八日にやうやく噴火は収まったが、越冬のための備蓄を失った農民は家畜ともども「渇命」の危機に陥る。
しかし幕府は當初、
「備蓄があるはずだから直接救援するつもりはないが、場合によってはその用意がある」
とりあへず救援は直接の領主へ訴えろ──
と、他人事な態度だった。
その領主はほとんとが旗本で、経済基盤が脆弱だった彼らになす術はなく、「備蓄があるはずだ」の一点張りで押し通さうとする。
頼りにならぬと見た農民は幕府へ直接に救援を嘆願するが、展示されたその文書の点数の多さに、彼らがいかに必死の状況下にあったかが生々しく傳はってくる。
二年経っても田畑の復興は進まず、度重なる嘆願にやうやく重ひ腰を上げた幕府
は、テフラの堆積によって川床が上がり通船できなくなった相模川や酒匂川、金目川など大河川の普請(工事)を「公儀の責務」として行なふが、請負業者の杜撰な仕事ぶりが発覺する──
現代の政府や行政とやってゐることがまったく同じであることに、私は戦慄すら覺へる。
そこへあの、「被災者に寄り添ひ云々」の名ゼリフが出て来たら、まるっきり令和現在だ。
けっきょく田畑を復興させたのは農民自身であり──ただしその資金は政府が出した──、テフラの厚く堆積した土地を深く掘って溝をつくり、そこへテフラを落とし込むと、掘り出した土をその上に被せていく「天地返し」と云ふ壮大な技法は、農民たちの意地すら感じる。
神奈川県内では、近年にその広大な「天地返し」の跡が発掘されてゐる。
それこそが、「自力本願」の正しさを現代に傅へる、先人たちの聲なのだ。