兵庫縣の姫路驛の南西にそびえる手柄山に保存公開されてゐる、旧姫路モノレールの車両に逢ひに行く。
昭和四十一年(1966年)四月一日、姫路城の復元工事完成記念と東京オリンピックの協賛事業として開催された、「姫路大博覧會」の手柄山會場と、姫路驛とを結ぶ當時斬新な輸送機關として計画されたが、
(※姫路大博覧會の復元模型)
實際に開業したのは會期も後半の同年五月十七日と、初日に間に合はなかったところに既にその後の運命が暗示されてゐる。
(※往年の姫路モノレール 解説パネルより)
ロッキード社製の安心安全、かつ快適な乗り心地の車体設計、コンクリートのメインレールの上部には新幹線と同じレールを一筋敷設して安定性を高めるなど、
最先端の技術をふんだんに採り入れた氣鋭の乗り物だったにも拘わらず、
運行時間帯が九時薹から十七時薹までの日中のみ、しかも運賃がお高めと、環境には優しくてもヒトにはキビシイ運營が祟って博覧會閉幕後は利用者が激減、開業から僅か八年後の昭和四十九年(1974年)四月十一日に營業休止、同五十四年(1979年)一月二十六日、廢止となる。
以来、コンクリートのレールは町なかに雨ざらしの放置状態、車両は手柄山のなかに造られた旧驛構内に格納されたまま、戰後姫路の“負の遺産”──、長らく語りたくない存在として、隠され續けてきた。
その時代、私は一日だけ姫路に滞在した際、時間をつくって件の廢線跡、そして手柄山のモノレールが“幽閉”されてゐるあたりまで訪ね歩いたことがある。
その時の冩真は、メモリーカードのどれかに保存されてゐるはずだ。
しかし、歴史は時間が解決するもので、平成も終はり頃になると旧姫路モノレールを歴史遺産として見直す動きが起こり、それは車両が“幽閉”されてゐる旧手柄山驛を交流センターの一部として再整備する計画となり、それまで固く閉じられてゐた鐵扉が開けられて、モノレールは文字通り、數十年ぶりに“日の目”を見る。
町なかに長年放置された挙げ句に撤去されたコンクリートレールの場合と違ひ、長らく山中に閉じ込められて風雨に晒されなかったおかげで車体が至極良好な状態を保ってゐたことは、
(※モノレール車内)
幸ひであると同時に皮肉でもある。
かくして平成二十三年(2011年)、「語りたくない“負の遺産”」から、「戰後の姫路發展の“生き証人”」へと見事な復活を果した旧姫路モノレールは、令和二年(2020年)には土木遺産にも認定されるなど、年齢(とし)を重ねてから苦勞が報はれるタイプか。
そんな旧姫路モノレールに一目逢ひたいものと願ひ續けて、やうやくこのたび叶ふ。
車両の状態のとても良いことがなにより素晴らしいが、鳥取縣まで延伸する計画であったと云ふこのモノレール、最高速度が120キロまで出せるやう設計されてゐたことには、驚きと云ふより恐ろしさを覺ゆ。
旧手柄山驛の出入り口より、かつてはレールが姫路驛に伸びてゐた方向を望むと、向かふに小さく姫路城が見えた。
改めてつくづく思ふ。
歴史とは、しょせんその時代(とき)を生きたヒトの“匙加減”なのだと……。