
今年の櫻は、ちゃうど今が見頃を迎へてゐるやうだ。
咄に聞くだけでも、今年は特に櫻見物の人出が多いらしい。
すでに感染擴大劇の“第四幕”が始まってゐることを思へば、なんと不用心な……、などと、いまさら憂へることなどない。
「自衞」しか予防手段のないことが明白な現在、尻輕な有象無象に自分も加はらねば良いだけのことだ。
もとより私は、共演者(ツレ)など必要としない。
こんなバカげた感染擴大劇に出演するなど真っ平御免、樂しく観劇する側に限る。
なれば耳で櫻を眺めんと、早朝にラジオ放送で寶生流の「雲林院」を樂しむ。
一人の僧が櫻の枝を手折ったことから、それを窘める老人と和歌を引用して屁理屈の應酬、そこへ「伊勢物語」も絡んでくるなど、いかにも知識階級にウケさうな曲だ。
詞(コトバ)として聴くと、私のやうな無學者など「これがニホン語なのか……?」と呆れるばかりだが、さすがは“謠ひ寶生”、音で日本の櫻の優美を魅せてくれる。
能樂堂までさうとは思ひたくないが、公演會場における感染予防對策は案の定、杜撰だと洩れ聞く。
……さすが、“劇場型”の感染擴大劇である。
さて噺は変はり、縁あって昔日の武州熊谷の、熊谷堤を冩した繪葉書が手に入る。

熊谷堤は、江戸時代より櫻の名所なり。
ただし現在の景観は、戰後に堤防を大改築した後のものにて、昔日そのままに非ず。
かつては旧中山道の道筋にもあたってゐたこの旧堤は、現在は整備した公園内に、一部が遺されてゐる。
しかし、上の繪葉書に冩る満開の櫻は、いまは残ってゐない。
枯れたのではない。
昭和二十年(1945年)八月十五日、終戰の日の午前0時過ぎから一時間以上にわたって米軍B29が熊谷市街を空爆、その時に堤の櫻もすべて燃えてしまったからである──「ニッポン徘徊 中山道20」参照──。
かつて、旧中山道探訪の際に調べた資料でその事實を知って以来、米國と軍への許し難ひ思ひと、往年の景色への想ひが常に心の片隅に在ったが、その往年を傅へる“紙の”資料が手に入ったことはこの上ない喜びだ。
紙にして、重い一葉。