迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

元号の正体。

2019-02-04 17:34:27 | 浮世見聞記
横浜市旭区の神奈川県立公文書館で、「改元漫遊」展を見る。


今年の五月一日に控へた改元に因み、江戸後期に行はれた“享和”への改元過程をはじめ、その時々の改元にまつわる人間模様を、所蔵資料とパネルで分かり易く展示した企画展。


元来、天皇は時間を支配する唯一の存在であり、その象徴が元号だった。

その元号をあらためる“改元”こそ、天皇の権威がもっとも発揮される時だった。


しかし、そんな権威も現実世界では、果たしてどこまで及んでいたのだらうか──?


鎌倉時代の1213年(建暦三年)十二月七日、後鳥羽院政下で不遇をかこってゐた藤原定家は、元号が“建保”と改まることを耳にして、

『“建保”とは、“献宝”と同音だ。つまり、賄賂が横行する今の強欲政治を象徴したものか?』

と皮肉るなど、なかなか人間臭ひ聲を「明月記」に残してゐる。


またこの中世といふ時代は、改元された元号を無視して旧元号を引き続き用ひたり、またみずから元号をつくって用ゐるなどの反抗勢力もいた。


武家が実権を握った後も、改元だけは天皇の権限だったが、実質的な決定権は武家側が握ってゐたことは言ふまでもない。

江戸時代には、京(朝廷)で制定された新元号は江戸(幕府)に送られ、ここで初めて公布されたため全国に周知されるには時間を要し、地方で発給された公文書はしばらく旧元号のままを記される場合があった。


また庶民階級では、その時間差のなかで偽の元号を刷り物にして有料で町中に配って一儲けする小悪人もゐれば、新元号を落首に詠み込んで時の政治を嗤ふなど、現代と変わらないことが行はれてゐた。



鎮護国家を祈念して定める元号も、庶民にはなんら意味を為さないものであることが、ここに露呈してゐる。


當世もしかり。


私もあと二ヶ月後に発表される新元号そのものに関心はあるが、

べつにそこになにも期待していない。

それは、645年の“大化”元年以来の歴史が、よく物語ってゐるからだ。



元号──

それは、早くに形骸化した権威の象徴、と言へる。





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