京都六波羅の方廣寺、と云へば、現在では豊臣家滅亡の原因とされる「國家安康 君臣豊樂」と刻まれた梵鐘が有名だが、
この寺には昭和四十八年まで、大佛が存在云々。
そもそも方廣寺は豊臣秀吉が、天正十三年(1585年)に關白に就任した翌年、東福寺辺で始めた大佛造營をこの地に移して再開するにあたり創建した寺で、件の大佛は東大寺のそれを凌ぐ規模の大佛殿に納められた高さ六丈三尺(約19m)の壮麗なる金色の木造坐像云々。
その大佛殿跡の一部は現在、隣接する豊國神社の裏手に公園として整備され、
また基礎の石垣も大和大路通り沿ひに、
一部を見ることができる。
さて、壮麗なるは金色大佛は完成間近の慶長元年(1596年)に發生した伏見大地震で倒壊、それでミソをつけたが如く、その後の二代目、三代目の大佛も災害續きに悩まされ、江戸時代の寛政十年(1798年)夏、彌次喜多も見物したと覺しき三代目大佛が落雷により焼失してからは長らく再建されなかったが、五十年後の天保十三年(1843年)、尾張國の商人たちの寄進によって、四代目が木造半身佛で再建さるる。
その存在は昭和三年に發行された吉田初三郎の手による觀光繪地図からも確認出来るが、
昭和四十八年(1973年)三月二十七日、失火によりわずか一部を残してまたしても焼失、今度こそ再建されることなく、令和現在に至る。
いまや傳説とも云へる「京の大佛つぁん」、四代目は二十世紀まで存在してゐたおかげで冩真に記録され、その尊容を拝することが出来る。
奈良や鎌倉の大佛を見慣れた人には、なんとも強烈で衝撃的な印象を與へるお姿である!
制作に携はった佛師は間違ひなく技量(うで)が優れてゐなかったことは確かで、郷土史家の田中緑江が自著で「グロテスク」と評してゐるのも、むべなるかな。
が、私はこの稚拙感が好きである。
古刹や博物館の特別展などで陳列されてゐる“國寶”や“重文”の美佛よりも、「また見たい」と云ふ氣持ちにさせる何かを、私はこのお姿から感じる。
この大佛が令和現在も傳存してゐたら、私は足繁く逢ひに訪れてゐることだらう。