dmenuニュースより
http://topics.smt.docomo.ne.jp/article/nikkangeinou/entertainment/f-et-tp0-241124-202411230001191?fm=d
今月十九日の七時三十六分、誤嚥性肺炎による敗血症性ショックにより死去、享年七十三歳云々。
三階席に通い詰めてゐた學生時分からけっこう觀る機會の多かった役者で、初めて目を引いたのは、ちゃうどその頃に尾上菊五郎(おとはや)がお家藝の「身替座禪」を出した時の太郎冠者で、いかにも狂言舞踊らしい輕妙な身のこなしにため息が出さうだったことは、現在もはっきり憶えてゐる。
そして「身替座禪」の太郎冠者と云へば、この時に觀た三河屋のものが私のなかで基準線となり、以後それを超える太郎冠者に、私はお目に掛かってゐない。
日本舞踊柏木流家元“柏木衞門”でもあったこともあるだらうが、その後やはり音羽屋お家藝の「土蜘蛛」で見せた間狂言では、役と舞薹の寸法をきっちり計算した踊りに、これが玄人(プロ)の藝なんだな、と勉強になったものだ。
芝居については、たまに歌舞伎味から外れさうになる難があり、それが時代狂言では重厚味に欠ける憾みのあった印象がある。
しかし、三代目市川猿之助のスーパー歌舞伎に珍しくは客演した際には、狂氣迸る敵役と好々爺な神様と云った相反する役柄を同じ役者とは思へぬほどの見事さで演じ分け、それだけの實力を古典歌舞伎の興行であまり活かせなかったのは、ひとへに興行會社の罪である。
幕末明治の名優七代目市川團藏の血統であり、その息で晩年に引退興行を行なったのち“失踪”した八代目の外孫として生まれ、それゆゑに歌舞伎役者としての藝の修行では、かなり苦勞したやうに聞いてゐる。
そのためか、藝については自分にも同業者にも厳しく、立稽古で覺えの惡い者に對して怒氣を露わにすることもあり、また日頃の勉強を怠けてきた者には、大變厳しく接する場面もあった。
それについて、いつであったか初心者向けの企画公演で「太刀盗人」が出た際の稽古中、本人の素質の無さもあらうが、私が見てさへ呆れるほどのあまりに出来の惡い主役に、指導を依頼された氏の堪忍袋の緒が切れ、
「ぶっ倒れるまで何度も繰り返し稽古をするものだ、このままでは親が人間國寶だからこの世界にゐられるだけの、アイツみたいになるぞ!」
と飛ばした叱聲に、内心でよくぞ言ってくれた! と溜飲が下がったものだ。
企画公演の當日、氏は開演前に樂屋へ形ばかりの挨拶を一言述べに訪れただけで、もう何も云はなかったと記憶してゐる。
蛇足だが、その出来の惡い主役の親もその後人間國寶となり、あの時の氏の危惧は、いよいよ現實になりさうだ。
故人は市川團藏の九代目で、かつてはその後繼者となる子息もゐたが、現在“江戸歌舞伎の総本家”を自稱する者による激しい“パワハラ”に心を痛めて廢業に追ひ込まれた事實は、ここでは余計かもしれないが、市川團藏と云ふ大名跡の行方を思ふ上で、敢へて記しておく。
芝居では敵役に回ることが多く、独特な殺氣立った形相の舞薹が強く印象に殘ってゐるが、もうひとつ化粧(かほ)についても、一本線を跳ね上げて引く独特の目張りを入れてゐて、
不思議な化粧をするなぁ、と思ってゐたが、最近になって曾祖父七代目團藏扮する幡随院長兵衞の古い資料が手に入り、
その顔を見て、ああこれか……! と思ってゐたら今回の訃報、
合掌