迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

ニッポン徘徊―中山道20 吹上間の宿→熊谷宿

2010-06-14 18:39:36 | 旧中山道
高崎線の跨線橋を渡ってその先に続く旧街道を進んでいると、堤防に行き当たります↑。

これが「熊谷堤」で、旧中山道はこの堤の上に続いています。

写真左手は「権八延命地蔵堂」。

その昔、白井権八がこの地蔵の前で人を斬り殺し、
地蔵に
「誰にも言うなよ」
と口止めしたところ、
「言わぬが、おぬしも言うな」
と返事をした、と云う伝説が。

ところが、これと同じ伝説が旧街道沿いの熊谷寄りにある地蔵にも伝わっていて、全国各地にある小野小町の墓と同じく、土地の伝承とはだいたいそんなものです。


地蔵堂の右脇の電柱には、『中山道 土手に上って右へ 至熊谷』と手書きによる丁寧な案内の貼紙があり、それに従って土手に上がると、



↑のような、江戸の昔そのままの、それこそ水戸黄門御一行が歩いていてもおかしくないようなローカル風景が広がり、思わず足を止めたくなります。

これが前述の「熊谷堤」で、戦国時代に時の領主が荒川の治水のために築いたとされ―現在の荒川はずっと西側を流れていて、堤からは見えません―、明治16年には1000本もの桜が植えられて関東屈指の桜の名所だったそうですが、第二次大戦で熊谷が空襲に遭った際に殆どが燃えてしまい、現在では一本も残っていません。

この長閑な景色にはそんな酷い酷い過去があり、歌舞伎役者時代にある大先輩が、
「戦争からは何も生まれない…」
と言っていたことを思い出さずにはいられません。

この堤は何度か改修工事がされているので、旧街道の道筋も当時のままというわけではないようです。

堤の東の先にはJR高崎線E231の走っているのが見え、ふと蒸気機関車が客車を引いている情景を思い浮かべて、中山道に沿ってあの鉄道が開通した時の土地の人々の目に映った光景って、こんな感じだったのかな、と想像したりしました。


道は熊谷市に入ったあたりで堤を離れて平地へと戻り、古くからの民家などが続くなかをしばらく行くうちに、国交省の出張所で寸断されているため脇道を迂回、さらに歩いて用水賂のような元荒川を過ぎ、あたりが開けた感じになってきたところで、右手の児童公園に「八丁の一里塚跡」(右手)が↓。



ここを過ぎて熊谷駅が見えてきたところで右折して秩父鉄道とJR高崎線の第六中仙道踏切を越えると、鴻巣宿から歩くこと約4時間、そろそろ熊谷宿に到着です。
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