朝妻八幡宮は文字通り、姫哭山の麓にあった。
境内が、そのまま姫哭山のへの登り口となっていた。
ところが、そのさほど広くない境内には、インターネットの写真で見たあの独特の社殿が、見当たらなかった。
その代わりに、薄汚れたプレハブ小屋が一棟、置かれているだけだった。
それが社殿らしいとわかったのは、正面に観音開きの格子戸が嵌められ、その前には申し訳程度の粗末な賽銭箱が据えてあったからだ。
え……?
僕はネットで見た写真を何かと勘違いしていたかと、自分を疑った。
「驚いたでしょう」
熊橋老人は、僕の心中を察したように苦笑して、こちらを向いた。
僕は「はぁ」と、曖昧にしか返事をできないでいると、
「かつてはここに、歌舞伎を奉納する舞台のついた、社殿があったんですわ」
と、熊橋老人はプレハブ社殿を指さした。
「ところが八年前、火事で全焼ですわ。社務所も、宮司の住まいも、ぜんぶ」
「そうなんですか……」
僕はようやく納得して、改めて境内を見回した。
ここが、金澤あかりの母方の実家か……。
インターネットの写真で見た社殿は、焼失前のものだったのだ。
僕はアテが外れて、がっかりした。
「何より惜しいのは、奉納歌舞伎の衣裳や、道具や、資料のすべてを、灰にしてもうたことです」
それがいかに大痛恨事だったか、熊橋老人のいくぶん怒りを含んだ口調が、よく表していた。
「そのために一時は、ほんまに廃絶の危機にさらされました。しかし、私たちの代で絶やすなど、そんな、ご先祖様に申し訳ないことは……」
熊橋老人は語気ばかりか、表情までが険しくなりかけた。
が、その手前でハッと気がついたようで、
「……ははは、いや、失礼」
と、気恥ずかしげな笑みを見せた。
そして「さ……」と僕を促して、先を歩きはじめた。
僕はその後ろを付いて行きながら、プレハブ社殿を振り返った。
そして、ふと思った。
八年前と云うと、ちょうど金澤あかりが奉納歌舞伎に出た年に当たっているではないか……。
「歌舞伎の奉納は、いまもこの神社で……?」
「いや……」
熊橋老人は再び立ち止まって、こちらを振り向いた。「葛原の市民会館を借りて、続けてきました。奉納ではなく、“発表会”というかたちでね……」
「発表会」
「八幡宮でやらなければ、奉納の意味がないのでっしゃろ? さいわい、市民会館には所作板と松羽目の設備があるものやさかい、それを使わせてもろうたわけです。ただし演目は、“松羽目物”の踊りしか出来まへんでしたがね」
そう言って笑う熊橋老人の顔には、はっきりと屈託が滲んでいた。
やはり八幡宮の焼失は、相当にショックだったらしい。
「しかし、今年からはとりあえず、八幡宮の境内に仮設舞台を組んで、歌舞伎が出来るようになったんです。ただし演目は、相変わらずの『釣女』ですがね」
「それはそれは……」
「釣女」とはその名の通り、主人は上臈(美女)を釣り上げ、太郎冠者は醜女を釣り上げるという、四十分そこそこの狂言舞踊の小品だ。
僕は、松羽目の下絵を描いてほしいと頼まれた理由が、やっとわかった。
「まあ、ええのかどうか……」
熊橋老人は、相変わらず浮かぬ表情のままだ。
「今年のそれは、八幡宮の祭礼として行われるのやないのです。いわゆる、市主催の“町おこしイベント”として、行われるものなんです。奉納歌舞伎は、そのプログラムのなかの一つにすぎんのです……」
「ああ」
一度失われたものを復活させるのは、やはり難しいのだ。
続
境内が、そのまま姫哭山のへの登り口となっていた。
ところが、そのさほど広くない境内には、インターネットの写真で見たあの独特の社殿が、見当たらなかった。
その代わりに、薄汚れたプレハブ小屋が一棟、置かれているだけだった。
それが社殿らしいとわかったのは、正面に観音開きの格子戸が嵌められ、その前には申し訳程度の粗末な賽銭箱が据えてあったからだ。
え……?
僕はネットで見た写真を何かと勘違いしていたかと、自分を疑った。
「驚いたでしょう」
熊橋老人は、僕の心中を察したように苦笑して、こちらを向いた。
僕は「はぁ」と、曖昧にしか返事をできないでいると、
「かつてはここに、歌舞伎を奉納する舞台のついた、社殿があったんですわ」
と、熊橋老人はプレハブ社殿を指さした。
「ところが八年前、火事で全焼ですわ。社務所も、宮司の住まいも、ぜんぶ」
「そうなんですか……」
僕はようやく納得して、改めて境内を見回した。
ここが、金澤あかりの母方の実家か……。
インターネットの写真で見た社殿は、焼失前のものだったのだ。
僕はアテが外れて、がっかりした。
「何より惜しいのは、奉納歌舞伎の衣裳や、道具や、資料のすべてを、灰にしてもうたことです」
それがいかに大痛恨事だったか、熊橋老人のいくぶん怒りを含んだ口調が、よく表していた。
「そのために一時は、ほんまに廃絶の危機にさらされました。しかし、私たちの代で絶やすなど、そんな、ご先祖様に申し訳ないことは……」
熊橋老人は語気ばかりか、表情までが険しくなりかけた。
が、その手前でハッと気がついたようで、
「……ははは、いや、失礼」
と、気恥ずかしげな笑みを見せた。
そして「さ……」と僕を促して、先を歩きはじめた。
僕はその後ろを付いて行きながら、プレハブ社殿を振り返った。
そして、ふと思った。
八年前と云うと、ちょうど金澤あかりが奉納歌舞伎に出た年に当たっているではないか……。
「歌舞伎の奉納は、いまもこの神社で……?」
「いや……」
熊橋老人は再び立ち止まって、こちらを振り向いた。「葛原の市民会館を借りて、続けてきました。奉納ではなく、“発表会”というかたちでね……」
「発表会」
「八幡宮でやらなければ、奉納の意味がないのでっしゃろ? さいわい、市民会館には所作板と松羽目の設備があるものやさかい、それを使わせてもろうたわけです。ただし演目は、“松羽目物”の踊りしか出来まへんでしたがね」
そう言って笑う熊橋老人の顔には、はっきりと屈託が滲んでいた。
やはり八幡宮の焼失は、相当にショックだったらしい。
「しかし、今年からはとりあえず、八幡宮の境内に仮設舞台を組んで、歌舞伎が出来るようになったんです。ただし演目は、相変わらずの『釣女』ですがね」
「それはそれは……」
「釣女」とはその名の通り、主人は上臈(美女)を釣り上げ、太郎冠者は醜女を釣り上げるという、四十分そこそこの狂言舞踊の小品だ。
僕は、松羽目の下絵を描いてほしいと頼まれた理由が、やっとわかった。
「まあ、ええのかどうか……」
熊橋老人は、相変わらず浮かぬ表情のままだ。
「今年のそれは、八幡宮の祭礼として行われるのやないのです。いわゆる、市主催の“町おこしイベント”として、行われるものなんです。奉納歌舞伎は、そのプログラムのなかの一つにすぎんのです……」
「ああ」
一度失われたものを復活させるのは、やはり難しいのだ。
続