「書割、ですか?」
僕は再び訊き返した。
書割とは、舞台演劇の背景画をさす。
僕はもちろん、そういうものを手掛けたことはない。
第一、あれは芝居の大道具方の職分で、僕とは畑がちがう。
この老人、いきなり妙なことを言い出したものだ。
「いやぁ、ちょっとそういう方面は……」
僕は首を傾げてみせた。
絵なら全て一緒、などと考えられては困る。
「いや、書割いうても、そんな手の込んだものやないのです」
老人は慌たように、両手を振った。
そして、「ぁぁ……」と口の内でなにか唸りながら言葉を考える様子だったが、
「失礼、いきなりこんなこと言うたほうが悪いですな……。実はこの山の下に、八幡神社がありましてな。来週の祭礼に、奉納歌舞伎が演じられるんですわ」
僕はドキリとした。
「そこで、背景に能舞台のような松の絵が、必要なんですわ」
取材するつもりでいた農村歌舞伎が、向こうから寄って来た―
まさに、渡りに舟。
「能舞台のような松の絵、ですか」
僕はつとめて、平静を装わなければならなかった。
そうしなければ、声が上ずりそうだった。
社殿の縁板を舞台に演じられる、女人禁制の農村歌舞伎―
『十三歳のときに、一度だけ……』
舞台に立ったと云う金澤あかりの話しが、脳裏によみがえる―
「どうでっしゃろ? 描いていただけますやろか」
舞台の書き割などやったことはないけれど、やれないことはない、かもしれない……。
どっちみち、取材したいと思っていたのだ。
その機会を、みすみす逃すこともあるまい。
「僕でいいんですか……?」
「引き受けてもらえますか」
老人は嬉しいというより安堵した表情を浮かべて、初めてキャップをとった。「助かります」
そう言って、両脇を残してつるつるに禿げ上がった落武者のような頭を、深々と垂れた。
「いやぁ、奉納まで一週間やいうのに、肝心の書き割を描ける人が、都合つきませんでしてな……」
そして何度も、「よかった、助かった」と繰り返した。
どうやらこの老人は、“松羽目”を描いてほしいようだった。
歌舞伎には、能や狂言から取材した演目がある。
それらは、羽目板に老松を描いた能舞台風の大道具を組んで演じることが多いことから、“松羽目物(まつばめもの)”と呼ばれている。
「では早速、いまからでも大丈夫ですか?」
「え?」
おそろしく唐突な話しで、僕はさすがに面食らった。「まぁ、大丈夫ですが……」
こうして僕は、思いもよらない形で、朝妻八幡宮の奉納歌舞伎に関わることになった。
僕は、朝妻歌舞伎保存会長の熊橋敬一、と名乗ったこの老人と共に、姫哭山を旧朝妻宿側へと下って行った。
こちらの側の道も、草に埋もれかけた獣道だった。
「まったく分かりづらい道でしょう」
熊橋老人は足元を注意しつつ、後ろに続く僕に話しかけてきた。
「そうですね、油断していると見失いそうですね……」
「むかしは、ちゃんとした道だったんですよ。ハイキングも出来るような」
熊橋老人は僕を振り返った。「かつては私たちがボランティアで、定期的に道の整備をしていたんです。草刈をしたりね」
「はあ」
「ところが、“平成の大合併”でとなりの葛原市と一緒になったら、市の連中が『整備局の仕事だから余計なことはするな』、こうですよ……」
「はい」
「ところが、行政は放ったらかし。で、この有り様です」
熊橋老人は憤懣やるかたないとばかりに、大きなため息をついた。
続
僕は再び訊き返した。
書割とは、舞台演劇の背景画をさす。
僕はもちろん、そういうものを手掛けたことはない。
第一、あれは芝居の大道具方の職分で、僕とは畑がちがう。
この老人、いきなり妙なことを言い出したものだ。
「いやぁ、ちょっとそういう方面は……」
僕は首を傾げてみせた。
絵なら全て一緒、などと考えられては困る。
「いや、書割いうても、そんな手の込んだものやないのです」
老人は慌たように、両手を振った。
そして、「ぁぁ……」と口の内でなにか唸りながら言葉を考える様子だったが、
「失礼、いきなりこんなこと言うたほうが悪いですな……。実はこの山の下に、八幡神社がありましてな。来週の祭礼に、奉納歌舞伎が演じられるんですわ」
僕はドキリとした。
「そこで、背景に能舞台のような松の絵が、必要なんですわ」
取材するつもりでいた農村歌舞伎が、向こうから寄って来た―
まさに、渡りに舟。
「能舞台のような松の絵、ですか」
僕はつとめて、平静を装わなければならなかった。
そうしなければ、声が上ずりそうだった。
社殿の縁板を舞台に演じられる、女人禁制の農村歌舞伎―
『十三歳のときに、一度だけ……』
舞台に立ったと云う金澤あかりの話しが、脳裏によみがえる―
「どうでっしゃろ? 描いていただけますやろか」
舞台の書き割などやったことはないけれど、やれないことはない、かもしれない……。
どっちみち、取材したいと思っていたのだ。
その機会を、みすみす逃すこともあるまい。
「僕でいいんですか……?」
「引き受けてもらえますか」
老人は嬉しいというより安堵した表情を浮かべて、初めてキャップをとった。「助かります」
そう言って、両脇を残してつるつるに禿げ上がった落武者のような頭を、深々と垂れた。
「いやぁ、奉納まで一週間やいうのに、肝心の書き割を描ける人が、都合つきませんでしてな……」
そして何度も、「よかった、助かった」と繰り返した。
どうやらこの老人は、“松羽目”を描いてほしいようだった。
歌舞伎には、能や狂言から取材した演目がある。
それらは、羽目板に老松を描いた能舞台風の大道具を組んで演じることが多いことから、“松羽目物(まつばめもの)”と呼ばれている。
「では早速、いまからでも大丈夫ですか?」
「え?」
おそろしく唐突な話しで、僕はさすがに面食らった。「まぁ、大丈夫ですが……」
こうして僕は、思いもよらない形で、朝妻八幡宮の奉納歌舞伎に関わることになった。
僕は、朝妻歌舞伎保存会長の熊橋敬一、と名乗ったこの老人と共に、姫哭山を旧朝妻宿側へと下って行った。
こちらの側の道も、草に埋もれかけた獣道だった。
「まったく分かりづらい道でしょう」
熊橋老人は足元を注意しつつ、後ろに続く僕に話しかけてきた。
「そうですね、油断していると見失いそうですね……」
「むかしは、ちゃんとした道だったんですよ。ハイキングも出来るような」
熊橋老人は僕を振り返った。「かつては私たちがボランティアで、定期的に道の整備をしていたんです。草刈をしたりね」
「はあ」
「ところが、“平成の大合併”でとなりの葛原市と一緒になったら、市の連中が『整備局の仕事だから余計なことはするな』、こうですよ……」
「はい」
「ところが、行政は放ったらかし。で、この有り様です」
熊橋老人は憤懣やるかたないとばかりに、大きなため息をついた。
続