終戦後間もない日本の街を、電気自動車が走ってゐた──
そんな信じれないやうな歴史の生き証人が、横浜の日産グローバル本社ギャラリーを、いま訪れてゐる。
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昭和二十二年(1947年)に製造された、『たま 電気自動車 E4S-47-1型』がそれだ。
終戦當時の日本は物資や食糧、石油が深刻な不足に陥ってゐたが、電力については家電製品が殆ど無く、また主要な大工場も爆撃で破壊されたため大口の需要も無く、なんと電力供給は余剰気味だったと云ふ。
終戦後の日本は電力が有り余ってゐたとは、初耳である!
その解消のために政府は電気自動車の生産を奨励し、當時はいくつもの新興電気自動車メーカーが誕生した。
「たま電気自動車」もそのひとつで、戦前の立川飛行場から派生したメーカーとのこと。
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丸みを帯びた外観はいま見てもなかなか洒落ており、現代の街中を走っても充分に通用する。
なんと言っても見事なのは、運転席の仕様だ。
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藝術的なまでに、ムダが無い!
“コスト削減”がそのまま“品質低下”に直結してゐる現代とは、天地雲泥の差だ。
かつてリバイバル上映会で「そよかぜ」を観た時にも痛感したが、終戦間もない頃の日本にこれだけの物を創る技術力=“國カ”があったことに、私はただただ驚くと同時に、これこそが戦後復興の邁進カだったと、納得する。
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先月の台風十五号よる大規模停電と復旧への大幅な遅れ、それによる生活への深刻な影響は、現代社会がいかに電力に頼りすぎてゐるかを、改めて浮き彫りにした。
そして、現今のニッポンがあらゆる意味で、いかに「人材不足」であるかも露呈した。
人材の不足は、技術の不足へと直結する。
さらにそれは、“國カ”の低下にもつながっていく。
外國人労働者を多く投入しなければやっていけない現在の労働社会を、ニッポンの國カ低下の現れと警鐘を鳴らした評論家センセイがいたが、明らかに多く見かけるやうになった薄汚れた身なりのそれらを目にするにつけ、だうやらハズレではない気がしてしまふ。
人手が足りないのではない。
人手を集める“知恵”が足りないのだ。
人材が豊富ならば、いかなる國難にも立ち向かへる“力”が生まれる。
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その事実を、『たま 電気自動車 E4S-47-1型』は身を以て示してくれてゐる。