駒澤通り沿ひの目黒區中町二丁目、道の反對側は同區祐天寺二丁目、目の前には祐天寺二丁目と記された信号の立つそばの小さな三角地帯に、古い石像と石柱が同居してゐる。
石像は江戸初期の1600年代に建立された「さわら庚申」塔、右脇の石標はここが古くから交通路の要所であったことを傳へる、庚申塔から二百年後に建てられた道しるべ。
正面には『おくさわ(奥澤) ひもんや(碑文谷) いけかみ(池上)』、
右側には『右 ごほん木(五本木) ふたご(二子) 至』、
左側には『左 あさふ(麻布) 阿を山(青山) 至』。
いづれも二十一世紀令和時代に續く地名であり、東京都内の要路であり、古文書と浮世繪でしか知らない“江戸”が、にはかに生きた立体となって私の眼前に現れる。
そんな感覺に浸ってゐると、たったいま私の背後を通り過ぎた路線バスに向って、「なんで走ってんだよ~ッ💢」と、耳障りなキーキー聲で喚く小生意氣さうな顔つきをした男児が、その後ろを追ひかけて行った。
どうやらあのバスに乗り損ねたらしい。
乗れなかった原因はすべて、キミがマヌケだからだ。
目的地にたどり着きたくば、さうやって自分の足で走り續けるのだ、少年!
江戸時代にこの道を通った人々は、この道しるべを頼りに、さうして自分の足で、目的地に向ったのだぞ。