無料で本物に接することが出来る良心的な文化事業「相模原薪能」を、今夏も楽しむ。
今回は踏んだり蹴ったりな天候のため、会場をグリーンホールに移しての演能、なりよりも中止にしないところがありがたい!
開場時間に合はせて到着した頃には、空にはとりあへず雲の切れ間があり、またいくらか涼しい風もあって、むしろ会場ロビーのはうが蒸してゐるくらゐなれど、入口でやたら感じの良いお兄サンが手渡した団扇を手に、絶対にガラ空きな二階席へ。
地元で草の根運動を展開してゐた頃から名前を知ってゐる相模原市の新市長の、さすが國政で鍛へられただけあって簡潔な開会挨拶も見事ならば、第一線の一流能楽師本人による演目解説も、笑ひを上手に散りばめた一級の内容で──自分のなかの世界観でしか喋れない學者だの評論家などでは、とうてい無理な藝当なり──、番組の余白にメモをとる。
わずか一部分からその曲全体を確かに想像させる仕舞二番に、狂言は大藏流山本家の「口真似」。
硬派な藝風の狂言も、回を重ねて観るうちだんだんと柔らか味を見出せるところに、“武家式樂”としての厚みと深さがある、と云ふことか。
能は寶生流宗家がシテを舞ふ「船弁慶」。
前シテ静御前の淑やかさ、後シテ平知盛の霊の力強い凄味を色鮮やかに魅せ、また八人の地謡方がこれぞ『謡ひ寶生』の面目躍如たる藝を耳で魅せてくれた、観応へも聴き応へもある極上なひととき。
能楽をちゃんと観るなら、やはり寶生流だな、と再認識する。
そして、先月末に山形県鶴岡市で観た黒川能の土の匂ひ、また今宵観た寶生流の、洗練された都会藝能の匂ひ──日本の傳統藝能はその両輪があって、本當に成立するものであることを識る。
さりながら。
かうした今日の幸せも、罪の無い大勢の人々の貴い犠牲の上にあることを、終戦七十四年の今日、あらためて肝に銘じなければならない。