コーヒーは、私の朝食に欠かせない飲み物である。
そんな毎朝愛飲してゐるコーヒーの、日本における黎明期を紹介した「コーヒーが結んだ日系人と日本」展を、JICA横浜海外移住資料館で観る。
明治四十一年(1908年)、781人の日本人が笠戸丸でブラジル國サンパウロに移住し、現地のコーヒー農園で雇用労働者(コロノ)として従事したのが、日本にコーヒー文化が普及する始まりなり。
もっとも、彼らは永住するつもりはなく、三、四年後には金持ちとなって帰国する予定の、いはゆる出稼ぎ労働を前提としてゐたらしい。
しかし。
要領を学んだのちはそのまま現地で大農場主に“出世”し定住する者、または農場を離れて他の仕事に就く者──
運命といふやつは、
いつでも皮肉好きである。
かくして、日本人移住者によって生産されたコーヒー豆は日本に輸出され、東京や神戸などの大都市に誕生した“カフェー”で手軽に楽しめる“コーヒー”として、庶民に普及していく。
じつは、ブラジル國が日本人移住者をコーヒー農場の働き手として受け容れることを認めたのは、國内で過剰生産に陥ったコーヒー豆を大量に輸出させて、向かうで売り捌かせるためだった、といふ裏事情がある。
このやうに、歴史には必ず“裏”がつきまとう。
それはさておき、江戸時代に長崎へ伝はったKoffieを「珈琲」と当てたのは、シーボルトとも交友のあった宇田川榕菴(うだがわ ようあん)と云ふ津山藩医とさるる。
榕菴は単純に“Koffie”の音に当て字をしたのではなく、「珈」は女性の玉飾りを指し、また「琲」はその玉飾りを通す紐を指すことから、赤く実ったコーヒーの実を、漢字で絶妙に表現したのである。
なんて素晴らしい感性だらう、と感心する。
かういふのを、「教養」となむ言ひける。
コーヒー豆で、ひとつ思ひ出したこと、ありけり。
今は昔、花火の原料を取り扱ふため、横浜の本牧埠頭へ出向ひたこと、ありける。
奥へ進むにつれて、コーヒーの香ばしい匂ひが鼻をくすぐり、足許を見ると、干からびたコーヒー豆があちこちに落ちてゐた。
積み込みか荷下ろしの際に、袋からこぼれ落ちたものと、相見ゆる。
そのとき私は、Koffieとは遠い海の向かふから渡って来た“文化”なのだといふことを、殊のほか實感したのである。