陶芸工房 朝

アトリエ便りです。どうぞよろしく。

志賀高原~横手山山頂へ

2018年08月31日 | 旅の記録

 その後、風邪をこじらせて、しばらくペースダウンしてしまいました。

あっという間に「八月」もおしまい

夏のおわりに、この夏の思い出の写真を数枚ご紹介します。

 

横手山山頂からの風景

(左右にスライドしてみてください。雄大な北信州の風景です)

 

横手山登山リフト到着場付近

 

最後に、2307メートル・岩手山山頂記念です

 

2018年の夏よ   さよなら。

 


信州・渋温泉にて

2018年08月21日 | 旅の記録

  夏休み、久しぶりに信州旅行をしてきました。

 信州の鄙びた温泉に滞在して、信州に住む甥っ子に志賀高原から横手山界隈を案内してもらい、最後に善光寺とその近くにある姉のお墓参りをしてきたのです。

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 笑われそうですが、東京から長野までを「新幹線」でいくのは初めてでした。で、大宮の次が長野というスピードに驚き、長野駅から長野電鉄に乗り替える立派な地下道に驚き、長野から湯田中までの超特急電車の快適さに驚いたのでした。というのも、ひと時代前の私の記憶にある信州は、信越線で関東平野をえんえんと走り、軽井沢あたりの峠を超えて、さらにその先にある遠隔の地というイメージだったのです。

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  長野もすっかり都会化してしまったかと思ったのですが、湯田中駅からお迎えの車で北に15分ほど走ると、昔懐かしい木造建築の温泉場が見えてきました。横湯川沿いの道を折れて、車一台がやっと通れるほどの石畳の道を行くと、細長い温泉宿が両側に並んだ懐かしい温泉場の風景です。

 

 

    奥まった道の最後が本日の宿です。宿の露天風呂を浴びて、さて温泉場名物「厄除巡浴外湯めぐり」なるものをしてみようと出かけました。

 「巡浴祈願手拭い」と「浴場の共通鍵」とをもらっての湯巡りです。  共同の湯場 というのが9軒あって、一番湯(初湯)、二番湯(笹の湯)、三番湯(綿の湯)、四番湯(竹の湯)、五番湯(松の湯)、六番湯(目洗い湯)、七番湯(七操の湯)、八番湯(神明滝の湯)、九番湯(大湯)と、それぞれの泉質・効能が違うのだそうです。この「九つの外湯」は、共通鍵を持っている宿泊者と地元の人だけが、自由に使える仕組みになっています。(もちろん無料)

 

  

 間口二軒の長屋風 の建物、この入口の左側が女湯 、 右側が男湯です。どこの湯にも旗や暖簾がかかっていて、入口に仏像などが置いてありちょと異様な感じです。中に入るとすぐに脱衣所があり、奥に畳三畳ほどの浴槽があります。写真は第5の湯(松の湯) 

 

 

   こちらは4番湯の竹の湯です。 中の作りはいずれ同じようなものです。 外国人の女性が一人、もの珍し気に入って行きました。一見したところ、かなりおどろおどろし気にみえます。これを9箇所巡らないとご利益がないとのこと、かなりの好奇心が必要です。

  今でこそ、家に清潔な風呂があり、ひねれば熱いお湯が出るのが普通ですが、一時代昔の日本の暮らしを思えば、自然に湧き出る高温の温泉は最高のごち馳走だったのでしょう。ましてや、雪深い冬の信濃では、それががどれほどありがたかったか! 温泉湯治がどれほど老人の慰めになったか! 想像に難くありません。この温泉の開湯は1300年も前とのことですから、1300年もの間、地元の人たちがこの温泉場を守り育ててきたということです。それがこの「厄除巡浴祈願」の形になって残ったのでしょう。

 

 

 日が落ちる頃、近くのお寺からゴーンゴーンと鐘の音が聞こえてきました。

道端の提灯に灯がともり、地元主催の盆踊り会が始まります。宿泊客も浴衣に下駄ばきで、カランコロンと石畳を歩いて参加です。お店には地場のお酒やビールが並び、小さなお菓子屋では手づくりの温泉まんじゅうが並んでいます。子供たちが、将棋やカラオケやゲームを楽しんでいます。

 ふと、半世紀以上前の子供の頃に体験した田舎の夏祭りを思い出したのでした


伊豆の国と修禅寺物語と・・。

2018年01月08日 | 旅の記録

                                                                                                                       

三ケ日が明けてから、娘家族と一緒に伊豆の国・修禅寺温泉に出かけました。

  伊豆は、私が学校を卒業して最初に赴任した地でしたから、私にとっては心の原風景のようなもの、とても懐かしい地です。ところが、今回何十年ぶりかに訪ねると、見知らないことばかりです。温泉につかった後には、ものめずらしく今風の観光地の散策を楽しむことになりました。

 

  桂川沿いにあるのは、福知山修禅萬安禅寺(通称・修禅寺)  この地の中心です。

  近くには、有名な「独鈷の湯」もあります。桂川に沿って界隈の小道を入っていくと、おしゃれな小さな店がたくさん並んでいます。このあたりを最近は「伊豆の小京都」と呼んでいるとか。若者たちにも人気な温泉街だそうで、そういえば若者の姿も結構たくさん見かけました。橋や史跡や自然を核に、伊豆の歴史をたどりながら修禅寺を楽しむ仕掛けが、上手にできているという感じです。

 

                                         桂川の中州にある有名な独鈷の湯です。 

 修禅寺は、静岡県伊豆市修善寺にある曹洞宗の寺院で正式名称は「福地山修禅萬安禅寺」。そのすぐ近くにある「独鈷の湯」は、弘法大師が川の岩を独鈷で砕いて温泉を湧出させたという伊豆最古の温泉。

 修禅寺に参拝して、温泉街をぶらぶらと歩いていると、能面を並べて売っている店がありました。 その能面を見て、岡本綺堂の修禅寺物語を思い出しました。頼家に面作りを頼まれた夜叉王は、頼家の面を打ちますがそこに死相を見ます。やがてそれは現実に・・・。

  伊豆の修禅寺に頼家の面というあり、作人も知れず。由緒も知れず。木彫の仮面にて、年を経るまま面目分明ならねど、いわゆる古色蒼然たるもの、観来たって、一種の詩趣をおぼえゆ。当時を追懐してこの稿成る。

(岡本綺堂   修禅寺物語冒頭より)  

   こんな具合に始まる綺堂の修禅寺物語。綺堂が宿の主人から聞いたというの話は、源頼家 の面のことでした。源頼家は、鎌倉幕府を作りあげた源頼朝の嫡男で、母は北条政子です。鎌倉幕府の二代征夷大将軍になりながら、敵勢力に疎外されて鎌倉を追われ、伊豆に幽閉された後、23歳の若さで暗殺されます。この悲運の将軍と能面師夜叉王とその娘との物語は、後に「修禅寺物語」として歌舞伎の演目にもなって有名です。

 この階段の先にあるのが、頼家の死を悼み母北条政子が建立したという伊豆最古の木造建築「指月殿」。

 

指月堂には一体の仏像があり、息子の冥福を祈って北条政子が贈ったといわれるもの。鎌倉時代の作とか。

指月堂の先には頼家の墓もあり、揺れ動く鎌倉の草創期の混乱の様子が目に浮かんできます。

  伊豆の国  狩野の庄  修禅寺桂川のほとり  藁葺きの古びた二重家体。破れたる壁に  舞楽の面などかけ  正面に紺ののれんの出入り口あり、下手に炉を切りて 素焼きの土びんなどかけたり。 庭の入り口は 竹にて編みたる門、外には柳の大樹、そのうしろは 畑を隔てて 塔の峰つづきの山または丘などみゆ。

(修禅寺物語の舞台の描写です)

そうそう、  私の知っている伊豆もこんな風な質素で素朴な地でした。私の思い出に登場してくる子供たちも、ネコがネズミをかじった  ネズミがチュウとないた  なんて俳句とも詩ともつかないものを書いてくる、人懐っこい素朴な子供たちでした。伊豆の地は、そんな懐かしい昔をふと思い出させてくれたのでした。 

 歴史は町の宝物ですねー。掘れば掘るほど豊かな水が湧き出てくる「独鈷の湯」のようなものかもしれません。歴史のある町が好きです。思い出も同じようなものかしら?

 


初詣は成田山新勝寺で。

2018年01月02日 | 旅の記録



  今年も、娘たちと一緒に「成田山」に初詣に出かけました。

 成田山は千葉県成田市にある寺で、正式には成田山新勝寺といいます。

緩やかな長い参道は初詣の人でいっぱいで、否応なしに新春気分を盛り上げます。

 

初もうで  ひいた大吉に  背を押され

(記事はタブレットに書いてあったのですが、そのままで、投稿が遅れました。)


師走の益子路を行く・濱田庄司記念館

2017年12月05日 | 旅の記録

   ずっと行きたいと思いながら行けないでいた「益子」に行ってきました。

栃木県益子町といえば、誰でも知っている益子焼きの町です。 

 

濱田庄司記念益子参考館の中庭 

 

  今回の目的地は濱田庄司邸です。益子の焼き物を世界的に有名にした濱田庄司の自邸を中心に、仕事場、窯場、幾棟かの資料館が、緩い丘陵地に広がっています。「濱田庄司記念益子参考館」、そこには、生前、彼が蒐集した品々や、自分の作品、交流の深かった河井寛次郎やバーナード・リーチらの作品が、惜しげもなく並べられていました。自然をそのまま取り込んだようなゆったりとしたお庭を、師走を迎えて終わりに近づいた紅葉が、美しく彩っています。

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   実は、世界遺産になった日光東照宮に行くという友達と日光まで新幹線で行って、その帰り、私は一人で益子まで足を延ばしたのです。宇都宮駅前から出ている益子行きのバスは、街中を過ぎるとほとんど乗客もありません。貸し切り状態のバスに揺られて1時間余り行くと、そこが益子でした。

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   濱田庄司は、東京の出身ですが、「京都で道を見つけ、英国で始まり、沖縄で学び、益子で育った」と、自ら語っているように、世界を視野に仕事をしてきた人です。バーナード・リーチと共にイギリスに渡り「スリップウェア」の技法を再現していますし、日本の民芸の創始者といわれる柳宗悦や河井寛次郎たちと共に、世界中の民芸品を掘り起こし蒐集し「民芸運動」を起こしたことでも有名です。

 

 

イギリスのスリップウエアーの蒐集品 

 

今回の展示は「SLIP WORKS/泥しょうの仕事」展   

 濱田庄司やバーナード・リーチの、スリップ(泥しょう)を使用した多彩な陶芸作品を展示したものです。泥しょうというのは、「泥」を用いた技法なのですが、現代の陶芸でも盛んに使われているもので、私たちも「化粧掛け」と言っていろいろな泥しょうを使っています。刷毛目、書き落とし、飛びカンナ、イッチン、等々、粘土生地と相性の良い泥を表面に施す技法は、すべてその仲間です。 

 

濱田庄司作品

 

        本でよく見知っているリーチや濱田庄司の本物の作品を、じっくりと見ることができました。  貸し切りの美術館で、本物と1体1で向き合う幸せを、ため息をつきながら堪能したのでした。

 

 

ここが濱田邸の母屋だったところ

 

   ウイークデイの午前中だからでしょうか、広い屋敷の中に人の姿はありません。 母屋の壁に「コーヒー」の張り紙があったので、奥の方に声をかけてみました。女の人が出てきて「今日は寒いからこちらへどうぞ」と、小さな書斎風の部屋に案内して下さり、ストーブを焚いてくれました。

 

 

  部屋の書棚には、濱田庄司が読んだのでしょうか、本が積まれています。 コーヒーカップは、ここの濱田窯を継いだご子息の作だそうで、昔からの益子の伝統的な甕やすり鉢に使われた柿釉を使ったものでした。柿渋のようなくすんだ茶色が古民家にぴったり合って、なんとも居心地の良い時間です。

 

      

暖かなコーヒーを頂きながら、

                           いつかもう一度、誰か気の合う人ときたいなー、                        

 そんなことを思ったのでした。

  

 

 


Bonjour ニースからの便りです。

2017年08月20日 | 旅の記録

ご存知のように、ニースは、フランス南東部にある世界的に有名な観光都市です。 

 城跡から見渡す地中海の色は美しく、どこを撮っても絵葉書のような美しさです。

 

今日は、マティス美術館に行ってきました。

 マティス美術館は、ニース北部にある オリーブ畑に囲まれた情緒あふれる美術館です。

 

 

マティスの鮮やかな色は、ニースの色だということが分かりました。

(写真があまりに美しいので、娘からの便りの転載です。)


メヒシバと雀たち・アトリエ便りです

2017年08月04日 | 旅の記録

 秋の展覧会に向けての作品づくりをしているのですが、なかなか思うに任せません。

悪戦苦闘の毎日が続いています。

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  開け放したアトリエのガラス窓の前は、空き地になっています。以前は家が建っていたのですが、数年前に家を壊し、その後に砂利を入れてあったのであまり草も生えてきませんでした。ところがこの猛暑の中、どこから飛んできたのか、メヒシバとエノコログサとススキのような植物がはえ始めました。と思っていると、あっという間に、ご覧のような緑の雑草空間ができあがってしまいました。特にしなやかな穂を指のように広げたメヒシバ(女日芝)が勢力的に広がっています。

  「作品づくり」といっても、オブジェの制作はとても時間のかかる作業です。粘土を乾かし、乾かししながら、だんだんに粘土を積み上げて、目標のデッサンに近い形にまで持っていくのには、1週間以上の時間がかかります。いきおい仕事場にいる時間が多くなります。そんな仕事のあい間に、ぼんやりと空き地を見ていると、雑草の中を蜂が頻繁に飛び回っているのが目につきます。小さい虫もたくさん飛んでいますが、時々、黒いアゲハ蝶やアオスジアゲハ蝶もやってきます。最近気が付いたのは、雀がよく舞い降りてくることです。よく観察してみると、夕方の4時半頃、決まって数羽の雀が降りてきて、メヒシバの穂と戯れています。何をしているのか分からないのですが、そのしぐさが可愛くて、つい見とれます。開け放したアトリエは、格好の定点観測地なのです。

 

で、思いつたのです。「雀たちにパン屑をやったら、寄ってくるんじゃないかな」。きれいな水とパン屑を入れたお皿をならべて置いてみました。小半日、観察してみたのですが、生憎本日は来客なし。

*

それにしても、こんな砂利の中にたくましく勢力を伸ばすイネ科の雑草「メヒシバ」とはどんな植物なのでしょう。メヒシバは「雑草の女王」といわれ、世界の十大害草の仲間なんだそうです。メヒシバ「女日芝」書きます。それに対してオヒシバ「男日芝」というのもあるのだそうですが、オヒシバが根元を刈り取られるとお終いなのに対して、メヒシバは、トラクターでズタズタにちぎれても、それぞれの節から根や芽を出してどんどん増える、それどころか広いスペースの中では、茎を横に這わせてテリトリーを広げ、ライバルが現れると今度は茎を縦に伸ばして立ち上がり、相手を抑えこみにかかる、巧みな状況判断ができるしなやかな知能犯なのだそうです。(稲垣栄洋・雑草図鑑)

なるほど、だから雑草の女王なんですね。「草取りをすればするほど増える」となると、何もしないのが、いいってことなんでしょうか・・・ね。 

 われと来て あそべや親のない雀(一茶)


うつくしきものー神々の国・出雲

2017年06月18日 | 旅の記録

  八雲立つ  出雲八重垣  妻籠みに  八重垣作る  その八重垣を

 

 

    中国山地の日本海側に位置する島根県は、その面積の八割を森林に覆われているため、朝夕は山々から雲が立ち上り幻想的な風景をつくりあげます。上記の「八雲立つ」の歌は、まさしくそんな風景を詠ったもので、「出雲」という地名は、この「八雲立つ」からきているといわれています。古事記ではこの歌を、スサノオの命が素賀の地に宮を造る時に立ち上がる雲を見て詠んだ歌、と記しています。

*

  昨年、イザナミ・イザナギが国生みをした「淡路」を訪ねました。

出雲を訪れるにあたって思ったのは、国生みで産み落とされた神々のことでした。

 

 

出雲大社に参拝、「出雲神社は縁結びの神様」だけど「誰が縁結びをするの?」と思ったのです。

「神在り月」に全国から集まる神々たちが台帳を基に協議する・・・?

曖昧な知識にあきれながら、古事記を調べました。

*

  イザナギ・イザナミの神は、国生みをした後たくさんの神を産み落とします。が、イザナミは、火の神を生んだ後女陰を焼かれ、黄泉の国に行ってしまいます。イザナギは黄泉の国までイザナミに会いに行きます。が、イザナミはすでに死者の姿になっていて、イザナギは黄泉の国から追い返されます。天つ国に帰ったイザナギは、禊をして身を清めます。その時生まれたのが、左の眼から「アマテラス」、右の目から「ツクヨミ」、鼻から「スサノオ」です。三神は、アマテラスは「高千穂」を、ツクヨミは「夜の国」を、スサノウは「」、を収めるように言われます。しかし、スサノウは、母を慕って泣いてばかりいます。怒ったイザナギは、スサノオを高天原から出雲に追放します。  出雲についたスサノオは、そこで、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治という大きな仕事を成し遂げます。大蛇退治に成功したスサノオは、その地の神の娘クシナダヒメを妻に迎え、それからはすっかり大人の神になって、出雲に家をつくり出雲を守ります。

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 ということは、出雲大社はスサノオ神社でも不思議ないのです。ところが、スサノオは、出雲の国起こしのスタートランナーで、第2ランナーは、オオナムジ(後のオオクニムシ)になります。

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 古事記の舞台も、急進展し、主役は、スサノオから六代後の孫 オオナムジに移ります。スサノオの6代後ということは数百年が経過したということです。  オオナムジには大勢の異母兄弟がいて、その八十神たちが、オオナムチを亡き者にしようと次々と作戦を練ってきます。最初は、猪と偽って赤く燃えた火で、次には、巨木の楔でオオナムジを殺そうとします。が、いずれも母が助け出します。たくさんの災難を乗り越えたオオナムジを、母親は「根の堅洲国」へ行かせます。根の堅洲国とはスサノオのいる国です。その入口の黄泉比良坂(黄泉の国の入り口)で、彼はスサノオの娘スセリヒメと出会い、たちまち恋におちます。

 ところが試練は続き、今度はスセリヒメの父であるスサノオが数々の難問を課してきます。それ等を何とかやり過ごして、二人の逃避行は成功。スサノオもやっと二人を許します。そして、「お前が葦原の中つ国を治めて オオクニヌシノ神と名乗り、スセリヒメを妻とし立派な宮殿を建てて住むがよい」といいます。オオクニヌシは、出雲を中心に周辺の国々を支配し、たくさんの妻を持ち、たくさんの子を産み、出雲の王になります。

 

出雲神社の千木 

   繁栄を続ける葦腹の中つ国でしたが、今度は、天つ国の アマテラス大御神が、その絶大な権力を持ってオオクニヌシに国譲りを迫ってきます。あれこれと策略を練ってくるアマテラスに、オオクニヌシは国譲りを受け入れます。その時約束したのが、「しっかりした土台の上に、天まで届く高く太い宮柱を建て、千木をそびえさせた神殿を造って、オオクニヌシを祀る」ことでした。その後に造られたのが、出雲神社 である、と古事記は記します。

 

出雲大社の帰り、近くの「島根県立古代出雲歴史博物館」に行きました。

 

 島根県立古代出雲歴史博物館の展示物・荒神谷で発掘された銅矛

 

この地で発見された  銅剣・銅矛・銅鐸  が驚くほどたくさん展示されています。

見事な造形、時を経たものだけが持つ風格、静謐な美しさ、思わずため息がでるほどです。

 銅鐸は完全なものばかりでなく、無残に破られたり破壊されたりしたものもあります。

出雲に何かが起こったのでしょう?    

秘められた物語が、気になります。 

 

何かの理由で破壊されたと思われる銅鐸

 1984年、「荒神谷遺跡」からは、 銅剣358本、銅鐸6個、銅矛6本

1996年、加茂岩倉遺跡からは、39個の銅鐸が発掘された。

いずれも、整然とした形で埋められていた。

  出雲について書いた梅原 猛氏の「葬られた王朝では、「かつて出雲の地には、スサノオやオオクニヌシらの支配する『出雲王朝』があった。その王朝が倒され、権力は大和に移った」と推論します。梅原氏は、その前提のもとに出雲を訪ね、検証を重ねます。そして、荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡で見つかった銅剣や銅鐸の埋蔵物こそは、出雲王朝の存在と崩壊を語るものではないか、結論づけます。

 出雲には、出雲大社を中心に、佐太神社・八重垣神社・熊野神社・揖夜神社・美保神社・御井神社・斐伊神社・佐世神社・等々たくさんの神社が現存し、稲佐の浜・猪の目の洞窟・加茂岩倉遺跡・荒神谷遺跡・黄泉比良坂・等々、記紀に登場する場所や地名がたくさん実存していることは確かなことです。

 *

では、どうして 銅鐸は埋められたのでしょう?

どうして銅鐸を壊さなければならなかったのでしょう?

 その時、出雲の民たちは何を思い、何をしたのでしょう? 

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緑いっぱいのハスに囲まれた荒神谷遺跡が、古代へのロマンを誘います。

 

 ハスあおく  ロマン秘めたる  荒神谷 

 

 


うつくしきものー不味流と薄小倉

2017年06月11日 | 旅の記録

   「松江には、不味流という独自の茶の作法があって、ごく日常的に食事を頂くように抹茶を頂く習慣があるの」と松江出身のお友だちに聞いたことがあります。子供の頃から、「当たり前のように着物を着て、あたりまえにお茶を点てていた」という松江のこと、おいしいお茶とおいしいお菓子に出会いたいと、舟を降りて松江大橋を渡り、老舗のお店が並ぶ街をめざしました。

 「まつえ美味めぐり」のパンフレットの中から一番古そうなお店にしようと、小ぢんまりした、由緒ありげなお菓子屋さんに入ると、そこが 創業文化六年(1809年)、二百年も続いている老舗でした。その老舗の銘菓「薄小倉」をお土産にすることにしました。 

 

           

   粒一粒選り分け,心をこめて煮上げた小倉餡をお菓子に造りました。 素朴でさりげなく無造作で平凡な姿、それでいて思いがけない風味のお菓子が、薄小倉です                                                             (桂月堂・折り込み解説から)

 

シャリシャリとした透明な砂糖衣の中に大粒の小豆がつまった「薄小倉」

 小豆と砂糖衣の組み合わせが絶妙で、抹茶と頂いたらおいしそうです。

 本当は「 不昧流」のお手前でお茶と一緒に頂きたかったのですが、

  近くにお茶を頂くお店が見つからず、断念しました。

 

  不昧流は、松江藩第7代藩主松平治郷(不昧)によって創設されました。不昧公は、江戸で茶道を学んだお茶の名手でしたが、当時の華美な茶道会の在り方を憂いて、簡素で日常的な茶の道を求めました。その精神が、松江の人々の暮らしの中に茶道を根づかせて行きました。

  茶道と禅は同じ道を志す、茶禅一味の境地に到達すること。  無駄を省き、利休の侘茶に帰るべきこと。  清潔を旨とすこと。(挨拶の時にも畳に平手を付けないで軽く拳を握って挨拶する)。  華美な道具は避け、 衣服も質素な無地を使うこと見せ場のある点前は好まず、無駄と思える所作は省くこと。  簡素なお点前で、日常的に飯を食べ汁を吸うように、 無造作にして淡々と、 潔く目立たない点前をすること。

*
 
              実利的で合理的な精神です。
日頃、私たちがアトリエでやっているお点前も似たようなものなのですが、
   簡素で無造作に淡々と、この松江流、不昧公精神、妙に納得したのでした。
  

うつくしきものー水のある町

2017年06月08日 | 旅の記録

   ポンポンというエンジンの音で目覚めて窓の外を見ると、宍道湖を目指して川面を走っていくボートの姿が見えました。シジミ採りのボートです。ボートは、船体をやや傾け、水面に垂直に突っ立った人を乗せて、朝の光の中をかなりのスピードで走っていきます。町の中心を流れる大橋川から出発して、宍道湖に向かい、そこでシジミを採るのです。それには時間制限があるらしく、シジミをとリに行った舟は、時間をおいてまた大橋川に戻り、今度は川べりでシジミの選別作業をしています。

   松江の中心を走る大橋川は、中海と宍道湖とをつなぐ水路のような役割をしていて、初夏の青空の下、キラキラと輝く水面をモーターボートが行ったり来たりしています。水の町の豊かな彩です。

 

操業風景

               宍道湖には約300名のシジミ漁業者がいて、シジミ漁の風景は宍道湖の風物詩となっています。

                漁業者は「ジョレン」という漁具を使って、シジミを漁獲し、大きさをそろえて出荷します。 

 *

「松江」といわれても、なぜか私には「宍道湖と小泉八雲」しか思い浮かびませんでした。

松江が、松江城を中心にした水の町であることを、今回初めて知ったのです。

 

 

 松江城を囲うように張り巡らされた堀の中を、松江めぐりの乗り合い小舟が走っていきます。

  近場の舟付き場から船に乗り、船をおりて用事を済ませて、また次の目的に向かって船に乗る、そんな乗り継ぎもできます。舟付き場が適当な距離にあって、道でタクシーを拾うように、舟に乗れるのです。私も、松江城を見た後、また舟に乗って、次の目的地まで移動してみました。

  小舟はゆっくりと川面を走ります。時々船頭が[頭を下げて…」と言うので、乗客は思い切り体を曲げて身を屈めます。すると、するすると舟の屋根が下がってきて、低い橋脚の下を渡るのです。         時には舟幅いっぱいの水路を通り、時には川岸で洗い物をする水辺の暮らしを横に見ながら・・・ 、鷺がゐたり・・・、カメが甲羅干しをしていたりする・・・水辺を、ゆったりと走ります。

 このひと時代昔にタイムスリップしたような体験、船の料金が、一日乗り放題で1230円(割引あり)というのも、観光客にはうれしいもてなしです。

 

川面行く  松江の旅に   栴檀花

*

  その昔、まだ車がなかった時代、人々の移動手段はひたすら自分の足で歩くことでした。歩いて歩いて、ひたすら歩いて、江戸までも行ったのでしょう。でも人間の足と手だけでは大量の物は運べません。流れる「水」の力を借りて物を運搬する手段を手にしたのは、画期的な発明だったことでしょう。「水」は、人々の暮らしと共にあることで、その意味をまし、なくてはならない道具になりました。  ガソリンがなくても動く車でした。

*

古きよきものが今と共存し、自然が自然として大切にされている、

この町の居心地の良さは、そうした等身大の暮らしの匂いが、今もあることのような気がします。

松江は、美しい水の町でした。

日本海からの強い風や雪の降る季節に、もう一度来てみたいまちです。

 

 


うつくしきものー注連縄

2017年06月04日 | 旅の記録

 

これ何だかわかりますか?

 

 

不謹慎で申し訳ないのですが、ぱっと見て「オブジェみたいだ! 」と思ったのです。

*

実はこれ、出雲大社の「注連縄」です。

「注連縄」と書いて「しめなわ」とよみます。

歴史のある神社には、どこにも立派な注連縄が掛けられていますが、ここのはまた格別・・。

長さ13メートル、太さ8メートル、重さ5トン、という偉大さです。

しめなわは、本来、神の領域と人間の領域を区別するための仕切りのようなものだったのでしょうが、長い時間の間に、祭られた人も神格化され、それを祭る神社も特別なもとなると、しめなわも象徴的な存在になっていったのでしょう。神秘の象徴として昇化された形、それが今のような抽象的でシンボリックな「注連縄・しめなわ」なのではないかと思われます。

 私的に言えば「芸術的」「アーティステック」「まるでアート作品のよう」、ということになります。

 *

 

      宮沢賢治は、「しめなわ」について、その授業の中でこんな風に語ったそうです。

しめなは は、

垂らした藁は 

 白い御幣は    稲妻

雲が沸いて雨が降り、雷が落ちて田んぼが豊かになれば、その年の収穫は豊穣になる。

*

科学的に言えば、雷は窒素を含んでおり、その窒素が稲の大切な栄養になる

稲作を生業としていた農耕民族の祈りのシンボルとしての注連縄論

宮沢賢治らしい素敵な授業だと感心したのでした。

 

それにしても、出雲神社のしめなわは色といい形といいその風格といい、実に美しいのです。

 

 

 


うつくしきものーかきつばた

2017年06月02日 | 旅の記録

 展覧会が終わってほっと一息、気ままな旅に出かけてきました。

旅で感じた「心にうつり行くよしなしごとを、そこはかとなく書きつづってみたい」と思います。

*

 

 

  神さびた神社の参道を下っていくと、

右手の小さな池に点在して咲く白と薄紫と紫色のかきつばた(杜若)

その鮮やな色彩に思わず感嘆の声をあげました。

長い時を経てずっしりと古代色に風格をつけた建造物の中にあって、

緑と白と紫の色が、あまりにも美しかったからです。

 

 

 

これこそが古代人の愛でた色の世界!    夕暮れの静寂の中、一幅の日本絵を見る思いでした。

*

住みのえの 浅沢小野のかきつばた  衣に摺り付け 着む日 知らずとも(万葉巻7)

かきつばた 衣に摺り付け ますらおの きそい狩りする 月は来にけり  (万葉巻17)

 

かきつばたは、万葉の時代にも愛されていたらしく、万葉集にも上記の歌が残されています。

かきつばたの花びらを摘み取って、布に摺り込む習わしがあったのだそうです。

それは「花摺り」という原始的な染色の技で、染めた色は数日で消えてしまうのだそうですが、

優雅で可憐、何とも楽しいおしゃれではないでしょうか!

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「かきつばた」の語も、「描きつける花」から由来しているのだそうです。

現代のように、人工色の満ち溢れた世界と違って、自然の色が暮らしの全てだった古代では、

白と紫の色調は、この上なく美しく気品に満ちた「色」だったことでしょう。

 

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実は、この花を見た時、とっさに思い出したのは、在平業平の歌でした。

「東国への旅の途中、三河の国八橋の川のほとりに、かきつばたが面白く咲いているのを見て、

かきつばたという五文字を、句のあたまにおいて旅のこころを詠んだ歌」(伊勢物語)                                   


     からころも  つつなれにし  ましあれば  るばる来ぬる   たびをしぞ思ふ

光琳の杜若図・(ウイキベキアより転載)

 その伊勢物語に題材を得て、江戸時代の尾形光琳は、かの有名な「杜若図」を描いたのでした。

 

道で見かけるかきつばた(花菖蒲)を、さほど美しいと思ったことはないのですが、

この夕の  この一時の  静寂な花の姿を、まことうつくしき  と思ったのでした。