陶芸工房 朝

アトリエ便りです。どうぞよろしく。

蕗の薹 み~つけたーその2

2018年02月25日 | 野草

襲(かさね)たる紫解(と)けり蕗の薹

 

 

先週のブログで   紫解けず    とご紹介した蕗の薹が、

今朝みると 紫色の衣装をパラリと脱いで写真のように  萌黄色に変身していました。

まさに  紫解けり  です。 

  襲(かさね)たる紫解けず蕗の薹

 

  この句を見ていなかったら、そんなことは気にも留めなかったでしょう。「解けず」は打消しで「解けない」だから、「解けり」で解けたということになるよね!  なんて昔習った古典文法を思い出したりしながら、句を捻りました。それにしても、五七五の言葉だけでなく、季語とか場とか、特別の知識とか、俳句には制約が多すぎますよね!

 

で、あえて・・・(実は出来ないから)無手勝流で、

焼き〆に 春を活けたり  蕗の薹

 

 

 

 

 


蕗の薹 み~つけた

2018年02月18日 | 野草

  春の日差しは力強い。まだ冬から抜けきらないでいる裸の樹々に、朝の光は、斜め上方から降り注いで美しい陰影を作り出している。初春の明るい日差しに包まれて庭掃除をする。枯葉を掃きながらふと見ると、木陰にひとつ蕗の薹が顔を出している 。

「ああ   ハルガキタね」「ウン ハルガキタよ」

植物たちと秘密の合言葉。

 

 

ふと、歳時記の「蕗の薹」の欄を見ていたら、こんな句に出合った。

襲(かさね)たる紫解()かず蕗の薹      後藤夜半

一見、何のこと? 何を読んでいるのか判らなかった。

「襲ねたる」とは着物を襲ること、重ね着の意味である。重ね着の「」そう、蕗の薹の写真をよく見ると、紫色の衣にくるまれて、その内側に 萌黄色がのぞいている。

  昔から良く見知っているはずの蕗の薹なのに、紫色の重ねに気づいていなかったのだ。紫色の衣がぱらっと一片ずつ解けて、中から萌黄色がのぞく頃、人々は「ああ春がきたなー」と実感したのだろう。なんという観察眼だろう、自然に対する眼差しの深さにおどろかされる。

*

  余談だが、平安朝の女房装束には「襲の色目(かさねのいろめ)」という約束事があって、色の構成には、匂い、薄様、裾濃、村濃、 などの区分があった。さらに性別や年齢や身分や季節などによっても、その使い方が分けられていた。それらの色目の基本にあるのは、四季折々の 草・木・花・の色どりであった。(自然の植物から色の染料を取っていたこともあるだろうが) 自然界の色の移ろいが、平安の色の美学の基調をなしていたのだ。

 上記の俳句の作者も、蕗の薹 をみた時、そうした「襲の色見」のことをとっさに思い浮かべたのだろう。

 

 

ちなみに「日本の色辞典」の中には、春の「襲の色目」として上記の色見が記されていた。

まさに蕗の薹の色味である。


「アメリカン楽」を焼く

2018年02月06日 | 陶芸

    楽焼なら知っているけど「アメリカン楽(らく)」なんて聞いたことない、という方が大半でしょう。

「アメリカン楽」とは、日本の楽焼を外国人(アメリカ人)が改良したもののことで、簡単な窯で短い時間に焼きあがる楽焼ということです。今回、陶芸家協会の研修会でその「アメリカン楽(らく)」を焼くというので行ってきました。

 

  

 会場は藤枝市の山間地にある古民家の中庭。そこは、工芸家協会のメンバーMさんの仕事場でもあります。指導者してくださるのもメンバーのMさん。「焼きものづくりで過疎の山村の村おこしを!」をという活動をしておられるとのことで、簡単に短時間で焼き上がるこのアメリカン楽が、よろこばれているのだそうです。

 

                                     

 

  用意するものは、素焼きをした器と釉薬、焼成用の窯と薪。窯はごく簡単なつくりで、イケヤの大きめのバケツの内側に耐熱用の石綿をぐるりと巻いて焼成室を作り、バケツの下部に作った焚口から薪を焚くというものです。バケツの蓋の真ん中に煙突があり、煙の具合を見ながら焼成加減を調整します。

 

 

  窯に作品(茶碗 2~3個)を入れて、下から薪を焚くこと約20分。窯の温度が900度くらいになって釉薬(低温でも溶けるフリット系)がとけたら焼成の完了です。

 

 

  窯の蓋を開けて作品を取り出し、それを密封した器に入れて炭化させます。炭化には新聞紙やもみ殻のようなもを使います。5分ほど炭化させたら取り出して水につけます。

 

 

焚きあがった茶碗です。釉薬のかかった部分と素地の部分と炭化された部分が碗の景色を作り出しています。20分で焼きあがった作品とは思えないで出来ばえでしょう?

この方法で作品を焼成して展覧会に出だしている作家さんもいるそうです。

*

 私が使っている窯は、24時間以上をかけて1250度まで温度を上げ、さらに24時間以上かけて冷まします。それがわずか20分!! オ ーブンで肉を焼く時間です。しかも、出来具合もなかなとくれば・・・、これはかなりのショックです。

日ごろ思いながらも、慣れたやり方から出ようとしない、怠惰な自分の反省材料になりました。


年々歳々花相似 歳々年々人不同

2018年02月02日 | 日記・エッセイ・コラム

 中国の唐時代の漢詩の一節に、

「年々歳々花相似」(年々歳々花相似たり)「歳々年々人不同」(歳々年々人同じからず)

というのがある。誰でも知っているこの有名な一節を、草書で書いてみた。 

「花は年々同じように美しく咲くが、人は花と同じではなく年々老いていく。今日の美少年も、明日には白髪の老人となる」と、まぁ、人生の諸行の無常を嘆いた歌である。 一年をスパンで巡る花の命と、人の一生とを対峙させて無常を感じても詮なき事、とも思うが、この頃、そういう感慨が判るようになった。人は自分を基準にしてしか物事を考えられないものらしい。

 

 

    植物は、たしかに太陽のひとめぐりを基準に生きている。しかもかなりの正確さで、その出番さえ決まっている。「今年も一番のりはクリスマスローズだったよ」と先日のブログに書いたが、今日見ると、今度はバイモユリが5センチほどの緑の芽をのぞかせている。去年と全く同じ順序である。 彼らの持つている体内のバイオリズムが、それぞれ独自に季節に反応するのだろう。

それは私の思考でも十分に理解できる営みである。

 

  

ところが、

  数日前の月蝕の後半、 深い闇の中に、赤茶色のボールのような月がポツンと浮かんでいるのを見た時、なぜか、縄文の民たちが空を見あげてざわめき祈りの呪文を唱えている様子が思い浮かんだ。 

 

   

  自分の人生のスパンではとらえられない時間には、「悠久」を感じてしまうらしいのだ。 

科学的には、十分」理解しているはずなのに・・・。