陶芸工房 朝

アトリエ便りです。どうぞよろしく。

今年も一番のり

2022年01月22日 | 日記・エッセイ・コラム

今年も、春一番乗りはクリスマスローズでした。しかも一株から10輪もの花です。

人間界はまたまた新型コロナ(オミクロン)で大混乱だというのに、なんと泰然とした営みでしょう!

 

 

動じることない営みに感動していたら、「大根に異変、大量に廃棄」というテレビのタイトルが目に飛び込んできました。「まさかコロナが大根にまで?」と思って見ていると、例年に比べて出来の良かった大根が、外食需要の低迷で消費が伸びず、大量に廃棄されている、ということでした。

コロナがこんなところにま! 目に見えない微小な生き物たちが、地球を我が物顔に支配する人間に執拗に挑戦している、そんなふうにも想えてきます。   


今年も日展の季節になりました。

2019年11月10日 | 日記・エッセイ・コラム

東京六本木にある国立新美術館は、建築家黒川紀章氏設計の美しい美術館です。

美術館と言っても、上野の国立美術館のようにたくさんの収蔵品を持つ美術館ではなく、

企画展、いわゆる展覧会・展示を主体にした美術館です。

毎年この時期ここで恒例の公募展日展が開催されます。

          

 会場は、第1科日本画・第2科洋画・第3科彫刻・第4科工芸・第5科書道  というように、

    部屋をわけて展示され、 全館が日展一色で賑わいます。 

 下の写真は、1階の第4科「工芸」の部屋です。

 

   壁面にあるのは、染色、織物 皮工芸 等の平面作品。

 中央の平台には、陶芸、金工 漆 ガラス等の作品。

 工芸だけでも展示室が6室もあってお目当ての作品を探すのにくろうします。

             *     

 2階には、第3科の「彫刻」の部屋があります。

 等身大からさらに大きな作品まで百余体の彫刻が並び、まるで彫刻の森のようです。

 

 ここは、私のもっとも好きな部屋で、毎年ここを見るのを楽しみにしています。

 たくさんの彫刻作品の中をゆっくり歩きながら作品を鑑賞していくと、

 誰でもきっと、好きな作品に出会うことでしょう。 

 

                          

  会場に展示されているたくさんの作品を見ながら、いつも思うことは、

 小さなアトリエでコツコツと作品づくりに取り組んでいる人々のことです

 どの作品にも、黙々と作品と格闘する作者の姿が、後ろに透けて見えてきます。

 彫刻のような大きな作品では、その苦労の大きさがなおさらよく判ります。

 作品づくりとは孤独な仕事であるとつくづく思います。

 いくらやってもこれで満足ということがありません。

 悪戦苦闘しながら、もう嫌だと思いながら、

 それでも何とかコツコツやっている、それはまた自分の姿でもあります。

 今回の日展の応募作品は、各科合わせて1万1588点とのこと。

 会場に展示された作品は、その内の約2千9oo点、

 報いられなかった人の方が多いのです。

              *

 報われようが報われなかろうが、人は何かに向かって頑張るようにできている、

 「そこに山があるから登る」という冒険家と同じように・・・・

 だって、それが「生きる」ってことだから・・・・。

 最近は、素直にそう思えるようになりました。

 

 会場に並ぶたくさんの作品は、その美しいサンプルのように思えます。  

 


秋の宝石-2 (イワシャジン)

2018年10月19日 | 日記・エッセイ・コラム

秋の宝石ー2   イワシャジン 

 

イワシャジンを見ると、私は、なぜか高貴でうつくしい女人を想い浮かべるのです。

そう思い込むまでにはいくつかの理由があって、

その第一が、源氏物語に登場する「むらさきの君」です。

やんちゃで利発な少女「若むらさき」が、知的で美しい女性「むらさきの君」成長していく、

その象徴を「むらさき色」に感じていました。

*

もう一つ、こちらは万葉集、有名な  額田王と大海人皇子 の相聞歌、 

 あかねさす  むらさき野いき  標野ゆき   野守はみずや   君が袖ふる 

むらさきの   にほえる妹を 憎くあらば  人妻ゆえに   恋ひめやも

この歌の壮大なシチュエーションを、

紫色の花の咲く野に馬を走らせる大海人皇子が、走りながら白い衣の袖をひらりと振って

額田王に合図を送っている、とロマンチックに想像していたのです。

あかねさす紫野も    色(赤むらさき色)   の花の咲く野と思っていたのです。

ところが、後になって「紫草」の花は白い花だと知ってがっかり、困惑したのでした。

 

貴人の秘めたる恋の色は、やっぱり「むらさき」でなけらばいけません。

 

 

亡き母の   晴れの日の色 イワシャジン

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ルリタテハとホトトギス

2018年10月12日 | 日記・エッセイ・コラム

 

9月25日 

庭のホトトギスの茎に一匹の蛹を見つけました。

それまで、ホトトギスの葉を食べてしまうトゲトゲの毛虫をよく見かけたのですが、

その毛虫の蛹に違いありません。

さて、どんな蝶が出てくるのか・・・、

観察することにしました。

 

10月1日  

 朝夕 観察すること一週間あまり、

体の真ん中に目らしきものが、キラリと光るものが 現れました。

怪獣のような風体です。

 

 

10月5日10時20分

   

蝶の誕生です。 

  いつまで待っても、お尻からぶらさがったままだった蛹が、

ついに、脱皮したのです。

 

 

 

大きな蝶です。

ギザギザ模様の羽根から「タテハ蝶だ!」とわかりました。

が、なかなか羽根を開きません。

観察を始めてから2週間あまり、

二度の颱風にもびくともしなかった「蛹」が

ルリタテハ になったのです。

 

ルリタテハ

 写真・ウイキペディアより

 

 

10月12日  

あっという間に飛び去ったルリタテハのことなど忘れたように、

今、

ホトトギスは、満開です。

ホトトギスがルリタテハの食草だということを、私は、今回初めて知ったのでした。 

 

 瑠璃色の  蝶育てたり  ホトトギス


南仏の蝉

2018年07月23日 | 日記・エッセイ・コラム

日本列島を異常な暑さが襲っていますが、

蝉たちは、今年も快適に夏を迎えているようです。

 

 

 柱の蝉は、去年、娘がニースからお土産に買ってきてくれた陶器の「蝉」です。

 

 

  蝉をデザインした装飾品を、日本ではあまり見かけませんよね。

 

  南仏の観光地ではセミの形をした物やせみの柄を使ったものを沢山見かけます。ランチョンマット、テーブルクロス、マグネット、石鹸、エプロン、一番多いのは陶器ですね。フランス人、特に南仏の人にとってセミはとても親しみのある虫なのです。日本とは違う種類で見た目も鳴き方も違いますが、18世紀の有名なラ・フォンテーヌというフランスの詩人は、「夏はずっと歌って遊んでいたセミは、冬になると食べ物がなくて、働き者のアリのところに餌を分けてくれと頼む」という詩を作っています。20世紀の初め頃から南仏の陶器屋さんではセミの形をした物を作りはじめ、これが、幸せを呼ぶ縁起物 になりました。セミといえば 「夏」「夏休み」「のんき」「安逸」のシンボルなのです。

(ブログより一部借用)

 

それが、日本だと

 

やがて死ぬ景色は見えず蝉の声    芭蕉

空蝉やいのち見事にぬけゐたり   片山由美子 

 

ちょと生真面目で、深刻な感じのする「蝉」の姿がみえてくるのです。


緑かおる季節?

2018年04月16日 | 日記・エッセイ・コラム

  つい最近「はる」が来たナと思ったばかりなのに、山の樹々は一斉に伸びあがって、色とりどりのみどりで、家の周りを包みこんでしまいました。

自然の速度に感覚がついていけません。

 

 つい最近ブログに載せた「桜」の木が、もうこんな「緑」の木です。

 

 昔は、桜が咲いて、蕨が伸びて、タラの芽が膨らんでくる頃、タンポポが咲いて、樹々が一斉に芽吹き始めたようにおもいます。

 ケキョケキョとたよりなく鳴く鶯の声も、あっという間に上達して、もう「谷渡り」の囀りです。春もあっという間に過ぎて、このあたりは、もう初夏の風情、緑薫る季節を迎えています。

  自然は、もっとゆっくりと、穏やかに、味わい深く、変わらねばいけませんよね。

 

 

 


夏祭りの始まりの花火です

2017年07月10日 | 日記・エッセイ・コラム

昨夜は、家のすぐ近くにある「きよみず(清水)さん」の花火でした。

 

家の2階の屋根の上から見た「花火」

 

  清水寺は、谷津山の麓にある今川時代から続く由緒あるお寺です。

その昔、京から駿府にやってきたお姫さまが、「田舎は(駿府)はさみしいから、京の清水寺のような風情のある場所が欲しい」と言って建てさせたお寺だとか。近くの地名にも「音羽町」なんて地名がついていたりして、谷津山を背にしたお寺は、京都の清水寺の風情を思わせなくもありません。

 

 

 7月9日、この日がこの地の夏祭りの始まりです。 

  この日をかわぎりに、各地で夏祭りの花火が始まります。この日、各地から新しい浴衣を新調した若者たちが、祭りに集まってくることから、昔はこの日を「浴衣おろしの日」と言ったそうです。

新しい浴衣を着た若い男女の間に、淡い恋が芽生えたりする出会いの日でもあったのでしょうね。

 


「百花争鳴」って? 現代書道展から。

2017年04月06日 | 日記・エッセイ・コラム

どこに行っても桜が満開!!日本中の各地からさくら便りが届いています。

 

 これは家の前のさくらを仰ぎ見たもの

 

百花繚乱の中、体調を崩して悪い咳が止まらず、憂鬱な気分が続いています。

「そろそろ歳を自覚して、暮らしをペースダウンしたほうがいいよ」とか

「あちこち出かけるのは少なくして、その分晴耕雨読だね」なんていわれると

「そうね」と言いながらも、内心「そんなのムリ」と思うのです。

 

 

ところで、先日、静岡県立美術館で行われていた毎日書道展系の展覧会に行ってきました。

静岡では珍しい感じの、現代書道展 を興味深く拝見しました。

 

 

 

「百花争鳴」

(写真は、会場の作品の一部です、撮影はOKでしたので)

 

写真の「百花争鳴」は、普通の筆では書けないような線と面を使った斬新な書でした。

題名から、ふと花が咲き乱れている様を表したのかな、と思ったのです。

でも、釈文を読むと「多くの学者が自由に自説を発表し論争すること」とありました。

 花の季節によく目にする「百花繚乱」も、いろいろな花が咲き乱れること、

転じて秀れた人物が多く出て優れた業績が一時にたくさん現れることを言いますから、

「百家」を「百花」に託したもので、

「百家争鳴」多くの人が自由に論争すること「百花争鳴」としたものと納得したのです。

*

   その時、ふと思ったのです。

「現代書道って、古来からの文字文化の伝統を離れて、どこに向かって行くのかしら?

「現代」書道と従来の書道との基準の違いって何かしら?」と。

会場の会員の方にそうお聞きしたら

墨の線の動きと変化を紙の上に描いたものなら、文字でなくても現代書道の仲間です。

知的造形芸術の一環をなすもの、それが現代書道なんです」とのこと。

*

そうか、何でもありなんだ!

一般の理解を超えた不確かなものの中にある「確かさ」というか「新しさ」

その中にある「未知の可能性 」を追及しているんだろうな!  と妙に納得。

*

実は、不確かさの中の「確かさ」を模索しているのは、私自身でもあるのです。


物忘れの名人・茗荷

2016年10月05日 | 日記・エッセイ・コラム

  朝、庭からとってきて器に活けてみました。

 

 

   台風が雨と風とを運んでくるこの季節、庭の片隅で優しいクリーム色の花を咲かせます。

たいていは、採ってきて梅酢に漬けて、料理の付け合わせに使うのですが、柔らかなクリーム色があまりに美しかったので、小鉢に入れてテーブルの上に飾りました。

 

*

 

土の中から頭をもたげて咲く茗荷の花です(10月5日朝)

 

*

 「茗荷を食べると物忘れがひどくなる」

これ、よく使われる諺ですが、もともとは中国の故事からきたものだそうです。

釈迦の弟子の周利槃特(チューラパンタカ)は、特別に記憶力の乏しい人で、自分の名前もすぐに忘れてしまう。それで、釈迦は彼の首に名前を書いた名札(茗荷)を着けさせた。しかし、その名札を付けていることさえすっかり忘れてしまっている。

そこから「茗荷」イコール「物忘れ」となったという故事です。

*

そういえばこの話、ずっと前にも調べた記憶があるのですが、すっかり忘れていました。

認知症も他人ごとではない昨今、「茗荷・名札」は、高齢者の必需品になりつつありますネ。

*

忘れ難きことも多し  花茗荷

 


浅葱(アサギ)色って?

2016年09月28日 | 日記・エッセイ・コラム

 

  先日「アサギマダラは、浅葱色(アサギイロ)から命名された」と書いたのですが、

よく考えてみたら「浅葱色」ってどんな色なのか、分かっていませんでした。

 

 漢字から推測すると 「浅い」「「葱(ねぎ)」 色だから、緑色をおびた青色ですが、

                      そうするとアサギマダラの羽の色とは少々違うようです。                                   

 Parantica sita.jpg

 「日本の色辞典」で調べてみました。

浅葱色・ 水色よりやや濃い色   蓼藍で染めた薄い藍色  

*

今では色は無数に作れますから色見本でそれらしき色を捜してみました。

でも、色の名前は分かりません。(きっと名はあるのでしょうが)

大昔の人々は、色に何段階もの名をつけて、その違いを暮らしの中で愛しんだのでしょう。

縹色(ハナダイロ・花田色)は、藍より薄く、浅葱色より濃いのだとのこと。

*

 源氏物語では「元服した夕霧が『浅葱にて殿上にかえりたまふ』を、不満いっぱいに見送る祖母の姿が描かれている」とのことですし、田舎出の侍が羽裏に浅葱色の木綿を用いていたのを、無粋な人、野暮な人といって「浅葱裏」と呼んで揶揄した」とありますから、高貴な色ではなかったのでしょう。

*

この蝶をアサギマダラと命名したのは、いつ頃のことなのでようね。

以上アサギマダラについての「蛇足」でした。

 


姫沙羅の白い花

2016年05月30日 | 日記・エッセイ・コラム

今、姫沙羅(ヒメシャラ)という美しい名を持つ樹が、白い花をつけて満開です。

 

すらりとした美しい樹形に白い椿のような花をつけているのですが、

みどりの中にうずもれるように咲いているので花は目立ちません。

 

 

この姫沙羅、別名を「夏椿」ともいいます。

椿のような白い花が一日で落花してしまうので「椿」の名がついたのでしょう

 

  万葉学者の中西 進氏は、「万葉集の花」中で、「古代人における自然は今日の我々における自然とよほど違っていたように思われる。一言で言えば、彼らの「生命」と「言葉」と「自然」とが、ほとんど一つのものとして捉えられているからである。(中略) 「花」の意味が、見られることにあることを前提にしていえば、「咲き誇る」という行為は、空しい華麗さを耐えているということにもなる」

 ここに言う花は、小野小町の「花の色はうつりにけりな・・・」にあるような「桜花」のイメージなのでしょう。それに比べて美しいまま散る「椿」はよく武士の死の潔さに例えられました。

 

 ぽとりぽとりと  足元に遊ぶ  夏椿  

樹の下にいるとポトリポトリと音を立てるように姫沙羅の花が降ってきます。

これを見ていると、石畳の上や水桶の中で「見てよ、見てよ」とはしゃいでいる少女のようです。落下してから見せる「花」の美しさはどう例えるのでしょうかネ。

 

 

 


ネーブルが大収穫

2015年12月07日 | 日記・エッセイ・コラム

 12月だというのに今年はなぜか暖か、今日などまさに小春日和だ。

東南アジアの話はおいておいて、今日は、庭のミカン大収穫のお話。

 朝から枯れ葉をかき集めたり、庭木を切ったり、気にしながらも普段目につかないのでほっておいてある家の裏側の山に分け入った。 枯れかけたすすきの穂や野バラのつるが覆いかぶさってくる、それはワイルドな場所だ

 

             

  枯草を切り捨てながら進むと、びっくり!!  ネーブルの大きな実がたわわに実っているではないか!

それも数個なんてものではなく数十個? 50個はゆうにある。ようやく手の届く場所のネーブルを収穫。

味は、まさに上等のネーブル・スイートオレンジの 甘酸っぱさが新鮮だ。

 

「自然は偉大だ」とつくづく思う。水もやらず、肥料もやらず、手入れもしなかったこの1年の間、

もくもくと己の仕事に励んできた彼ら?に、ただただ脱帽、ありがとう!


アサギマダラー2

2015年10月25日 | 日記・エッセイ・コラム

朝、枯れ葉の掃除をしていると、今日もやってきました、アサギマダラ君。

急いでカメラを取りに行って撮った写真。白花フジバカマに止まったところです。昨日のものよりよいでしょう?

 

何回かブログにも書きましたが、この夏は夏草にお手上げでした。シルバー人材銀行に草取り依頼をしておいたら、ようやくシルバーさんが来てくれました。

たかが草取りされど草取り。草取りにもプロがあるのですねー。朝の7時から小半日で庭はきれいになりました。

写真左下の白い花がフジバカマ。 

思い悩むまでもなく、次には木の剪定もお願いしようと思いました。

 


アサギマダラがきたよ

2015年10月22日 | 日記・エッセイ・コラム

蜘蛛の糸が創ったアート作品。

 

朝、庭に出ると必ず引っかかって不愉快な思いをする「蜘蛛の糸」。その蜘蛛の糸に引っかかってカーテンのように揺れている枯れ葉 。

      人の手では創れない作品です。木と木との間に網の目のように張り巡らされた蜘蛛の糸の間を、ひらひら ひらひら、とアサギマダラがとんでいます。 

思わず「蜘蛛の糸につかまっちゃいけないよ」と言いたくなりましたが、

アサギマダラは蜘蛛の糸の間をかいくぐっておよぐように上下に舞っていきます。 

注・アサギマダラはフジバカマの香りにひかれて上空から舞い降りてくる渡り蝶、フジバカマは今満開です。

写真のピントがあまりにも悪いので「アサギマダラ画像」より借用。