陶芸工房 朝

アトリエ便りです。どうぞよろしく。

秋海棠の葉・不思議な形

2015年08月30日 | 野草

朝晩の気温の差が植物に秋を告げるのでしょう。秋の花が咲き始めました。写真は秋海棠です。 

 

先日、静岡市の美術館で開催されていた「青磁のいま」見にいって、作家の作品を創作する過程を紹介するビデオをみました。「身近な自然の形から創意を得て独特のフォルムを打ち出した」とわれる川瀬忍氏の成形のヒントは、庭に咲く秋海棠の「葉」でした。

 

なるほど、秋海棠の葉をよく見ると奇妙な楕円形をしていて、左と右の大きさも葉脈も相似形ではありません。

陶芸の世界では成形に轆轤を使います。轆轤造形の基本は「円」です。逆に言えば、轆轤を使う限り「円」から出ることができません。そこには、否応なくシメトリーの世界が生まれます。しかし、自然の世界は造形の妙に満ちていて、シメトリーでは表現できないカタチがたくさんあります。それをどのような技法でどのように成形して独自の世界を創りだすか、それが作家の技量です。

 

秋海棠の葉の造形から思いついたという「青磁の大鉢」(カタログから)

 秋海棠の葉からこの美しい青磁の大鉢を生み出す作家の感性と美意識と技量に、軽い嫉妬に似た羨望を感じるのは、私だけでしょうか。


宗教・教育・ボランティア-3

2015年08月26日 | カンボジア・ミャンマーの旅

 早朝の修道院、あたりはまだ暗い。

どこからともなく、木々の騒めきのように  サワサワ  サワサワ という音が流れてくる。

何の音だろう?と耳をすますと、音は何秒かの間をおきながら、呪文を唱えるように聞こえてくる。それはどこかの教会から聞こえてくる祈りの声らしい。明かるくなってくる頃には、マイクをとおした音楽も流れてきた。今日はどこかで結婚式があるとかで、早朝からにぎにぎしい。ピンウールィンには、なぜか教会が多い、イギリス人が多くいたからだろうか?  男子のみのキリスト教の寄宿舎もあり、そこには男子学生も大勢いる。

 修道院では毎朝6時にミサが行われる。

寄宿生たちは、思い思いのロンジーに上着を羽織って、早朝のミサに集まってくる。ここはシスターの修道院だからミサも女の子だけ。ここで聖書の一説を音読し、讃美歌を歌い、牧師の話を聞く。朝の祈りの時間。これを毎朝繰り返す。夕方にも、列を作って庭を歩きながら声をそろえて祈りの1節を唱える。若々しい女性たちのさわやかな祈りの声が、夕暮れの空気の中に広がる。家が貧しく学校にも行けなかった10代の少女たちにとって、これは「心に注ぎこまれる水」のようなものに違いない、と思う。

  日本人は、葬儀や盆や暮れにだけお寺に行く。墓参りは先祖に対する挨拶のようなものだ。その程度の仏教徒である。ところが、戒律の厳しい大乗仏教の国では、封建的な階級社会を支える大きな存在として仏教があった。階級には奴隷階級も存在した。貧しく恵まれない人々は、現世の快楽ではなく、仏に布施することで来世の安寧を祈った。長い間、そんな戒律の中で生きて来たミャンマーの人々にとって、キリスト教はどのように映ったのだろうか。 

 日本でも、教育の制度の整っていなかった時代、百姓の子供たちは労働力であった。貧しい家では子供に教育を受けさせることなどできないから、働きに出した。そんな子供たちにキリスト教は門戸を開いた。未知なる異国への憧れと未来への希望に、宗教は具体的な形と言葉で応えた。それは、光だったに違いない。ミャンマーを見ていると明治時代の日本を思いおこす。 ミャンマーは、今夜明けを迎えたばかりだ。封建領主の支配、異国の植民地支配、そして戦争、軍国主義支配、今、ようやく支配から解放されようとしているたミャンマーの人々は、これからどのような国を創っていくのだろうか。美しく豊かな自然と、素直で優しい笑顔の人々が、世界の経済戦争の波に飲み込まれないように、心豊かに育ってくれるように、願うばかりだ。

  修道院のやっている職能訓練校では、パソコンやミシンも教えている。私たちはそこでロンジーを縫ってもらった。ここで2年ミシン技術と縫製を習った子は、卒業時にミシンをもらって故郷に帰り、地域の人々の衣類を縫うのだそうだ。  支援物資に古いミシンがほしいのは、毎年生徒たちにミシンを渡してしまうので、新しいミシンを補充しなければならないから、と聞いた。  ここで学ぶ子供たちは、シスターたちの教育支援・職能訓練、そしてボランティアたちの物資の支援、資産家や先進国からの金銭的な支援と、いろいろな支援に支えられて育てられている。

 

      サヨナラパーティの時、彼女たちは、手に蝋燭を持ってミャンマーの歌を歌いながら踊ってくれた。 素直で明るい笑顔につられて、私たちも日本の歌「さくら さくら」を歌った。心が温かくつながるのを感じた。この若い世代が、ミャンマーの新しい歴史と文化を創っていくのだと思ったら、なんだか応援したくなった。                                                                     終り

 


宗教・教育・ボランティア-2

2015年08月22日 | カンボジア・ミャンマーの旅

ベトナム・カンボジア・タイ・ミャンマーは、同じ半島のお隣同士の国々です。

 だからどの国も同じかと言うと、そうでもなさそうです。ミャンマーのヤンコンに着いて驚いたことは、町や道が美しいことでした。カンボジアの雑然とした街やオートバイの群れを見て来たので、ことさらそう見えたのかもしれません。美しく整えられた高級住宅街の一角に緑に囲まれたスーチーさんの立派なお屋敷もありました。美しく壮大なパゴダには、しなやかな身にロンジーをまとった若い女性の姿も多く、デートスポットなのかと思ったほどです。

                                                         ヤンゴンの華麗なパゴダの屋根の一部。

  ミャンマーは仏の国といわれています。いたるところにパゴダ(仏塔)があって、どれも見事に金色に輝いています。

パゴダは「釈迦の住む家」として尊ばれ、それに寄進することは人生の最大の功徳とされました。功徳によって幸福な輪廻転生がえられると人々は信じ、何よりも功徳を積むことを重んじました。街を歩いていると、黄茶色の衣をまとった僧侶やピンクの衣をつけた尼僧たちに出会います。ミャンマーには、今も確実に仏教が息づいているようです。それも日本とは少し異なる戒律の厳しい大乗仏教の教えのようです。以前・タイの農家に泊まった時、その日生まれた3個の卵の内の2個をお坊さんに寄進してしまうのを見て、どうして家庭で食べないかと驚いたことがあります。その時のことを思い出しました。 この国の識字率の高いのも、各地の僧院が日本の昔の寺小屋のような役割を果たしているからだとも聞きました。仏教が、人々の暮らしの上i位にあるようです。

                                                     王宮の入り口、大砲がおかれている。戦時が偲ばれる。

  パゴダばかりではありません。マンダレーにはミャンマー最後の王朝の王宮跡が残されています。1辺が3キロの正方形の周りに濠をめぐらし四方に橋をおいてある形は、日本の皇居とそっくりです。現在は観光地化されていますが、1885年イギリスによって占領され、さらに1942年には日本軍が占領、その後日本軍とイギリス軍との戦いの場となった場所です。

                                                         マンダレー・金色に輝くパゴダ。

 あまりにも文化遺産が多いので、改めてミャンマーの王朝の歴史を辿ってみました。

 紀元300年、インド思想や学問がインドから伝わり、ビルマ土着の信仰と交じりあった独特の文化を形成しています。バガン王朝時代には、宗教、知識、科学、仏歴、天文学、占星術などが学ばれ、さらに、9世紀、白居易の著書「驃国楽」の中には、この地で歌舞や楽曲が奉納されたことが記されています。日本より遥か昔から大陸と交流しながら、各地で王族が権力を握っていったのです。

そんな国で、キリスト教はどんな活動をしているのでしょうか? 私見ですが次に記します。


蓮華ショウマ

2015年08月18日 | 野草

 暑さも峠を越えたのでしょうか。ツクツクボウシが鳴きはじめました。

この夏は、自分の仕事の他に記念誌編集の仕事が重なって,暑さの中、パソコンと格闘の日々が続きました。いらいらしながらの仕事もようやく完了。雑念を追い払って、本来の作品制作にとりかかっています。

暑さと忙しさにかまけて、まったく手入れをしなかった庭に、今朝、一輪の蓮華ショウマを見つけました。

       蓮華ショウマの  一輪咲きて   雑念多き  わが身を恥じる

 

 

 


宗教・教育・ボランティア-1

2015年08月02日 | カンボジア・ミャンマーの旅

 だらだらと枝葉末節についてばかり書きましたが、

本来の目的、ボランテアについて少し記しておきたいと思います。

 修道院の宿舎に荷物を運んでくれる寄宿生たち

写真は、私たちが泊まった修道院の一角にある宿舎。今回の旅行は「セブの少女たちに布地を送る会」を主催する河村恵子さんの企画「カンボジア・ミャンマー・スタデイツアー」に参加したものです。ツアーといっても参加者は川村さん夫妻と私を含めて3人だけの、ささやかなツアーです。

主催者の河村さんは、サレジオ会に所属する熱心ななクリスチャンで、ボランティア暦30年の女性です。そんな関係で、私たちは「サレジオ会」の修道院に受け入れて頂いたのです。(キリスト教にもボランテァにも関係のない私は、いわば好奇心だけの参加でしたが、それでも大きなサムソナイトに古着をいっぱいに詰めて、自分の持ち物は極力控て、ボランティアの覚悟で出かけたのです)。

 日本の高校生からの古い上履のお土産。古くてもうれしそう。

ここはカンボジアの寄宿舎の中、みんな集まってミーティング。子供たちは、驚くほど素直で明るい。みんなニコニコしていて愛らしい。修道院は、家族のように私たちを迎えてくれた。河村さんたちの30年間におよぶ ボランティアの賜物である。

 

カンボジアは、長い戦争の後も、ポルポト政権の支配下にあって、数々の悲惨な体験を重ねてきました。100 万人もの人が殺され、人口は激減、平均年齢 20数歳と言う若年層ピラミッド型の国になりました。教育制度は廃止され、さらに教師を初めとするあらゆる知識階級の人々が無残に殺害されたため、字を読める人が少なく、教師になる人材が極端に減ってしまいました。その上、貧しさのために小学校教育を最後まで受けられず、売られたり、働きに出されたリする子供も少なくありません。小学校を卒業できる子供は全体の52%に過ぎないのです。

It is enough  that you are  young  for  me  to love you . 

ここの学校の校舎の壁に書かれていた言葉。

私はここで初めてサレジオ会の創始者 ドン・ボスコという人のことを知りました。彼は、神父であると共に教育者でした。1841年、彼はトリノで「オラトリオ」という新しい教育事業を始めます。それは、若者たちのための運動場のある夜間学校で、仲間作りと祈りの場でもありました。やがて、それは職業学校になり、寄宿舎などを併設する教育の場になりました。ドン・ボスコは若者を大切にしました。「君が若者だというだけで大切に思う」「本来人間に備わっている良心,神から授かった種を健全に育てる事」それこそが教育と。ドン・ボスコのそうした理念は、その後もずっと「サレジオ会」によって受け継がれていきます。

それは今、カンボジアの地でも実践されていました。

 

荒れてスラム化したプノンペンの郊外、近くにはバラックが立ち並ぶ。

 

その地に建てられた校舎。シスターたちはここで

地域の子供たちに勉強の補修をし、大人の相談事にも付き合う 。

戦後、長い苦難の道を歩んできた ベトナムと・カンボジア・ミャンマー。この地で、貧しい若者たちに教育の種をまく人たち。河村さんたちが続けてきたのも、そうした貧しい子供たちへの支援です。就学支援を受けられた子は、修道院の寄宿舎で生活しながら教育を受けられるのです。それは彼らにとってかけがえのない未来につながる道なのです。

帰途、支援を受けている子たちが見送りに来て、日本のお母さんに抱き着きハグしている姿を見ていると、彼女たちが教育と共に心も育てられているのを感じるのです。