陶芸工房 朝

アトリエ便りです。どうぞよろしく。

宗教・教育・ボランティア-3

2015年08月26日 | カンボジア・ミャンマーの旅

 早朝の修道院、あたりはまだ暗い。

どこからともなく、木々の騒めきのように  サワサワ  サワサワ という音が流れてくる。

何の音だろう?と耳をすますと、音は何秒かの間をおきながら、呪文を唱えるように聞こえてくる。それはどこかの教会から聞こえてくる祈りの声らしい。明かるくなってくる頃には、マイクをとおした音楽も流れてきた。今日はどこかで結婚式があるとかで、早朝からにぎにぎしい。ピンウールィンには、なぜか教会が多い、イギリス人が多くいたからだろうか?  男子のみのキリスト教の寄宿舎もあり、そこには男子学生も大勢いる。

 修道院では毎朝6時にミサが行われる。

寄宿生たちは、思い思いのロンジーに上着を羽織って、早朝のミサに集まってくる。ここはシスターの修道院だからミサも女の子だけ。ここで聖書の一説を音読し、讃美歌を歌い、牧師の話を聞く。朝の祈りの時間。これを毎朝繰り返す。夕方にも、列を作って庭を歩きながら声をそろえて祈りの1節を唱える。若々しい女性たちのさわやかな祈りの声が、夕暮れの空気の中に広がる。家が貧しく学校にも行けなかった10代の少女たちにとって、これは「心に注ぎこまれる水」のようなものに違いない、と思う。

  日本人は、葬儀や盆や暮れにだけお寺に行く。墓参りは先祖に対する挨拶のようなものだ。その程度の仏教徒である。ところが、戒律の厳しい大乗仏教の国では、封建的な階級社会を支える大きな存在として仏教があった。階級には奴隷階級も存在した。貧しく恵まれない人々は、現世の快楽ではなく、仏に布施することで来世の安寧を祈った。長い間、そんな戒律の中で生きて来たミャンマーの人々にとって、キリスト教はどのように映ったのだろうか。 

 日本でも、教育の制度の整っていなかった時代、百姓の子供たちは労働力であった。貧しい家では子供に教育を受けさせることなどできないから、働きに出した。そんな子供たちにキリスト教は門戸を開いた。未知なる異国への憧れと未来への希望に、宗教は具体的な形と言葉で応えた。それは、光だったに違いない。ミャンマーを見ていると明治時代の日本を思いおこす。 ミャンマーは、今夜明けを迎えたばかりだ。封建領主の支配、異国の植民地支配、そして戦争、軍国主義支配、今、ようやく支配から解放されようとしているたミャンマーの人々は、これからどのような国を創っていくのだろうか。美しく豊かな自然と、素直で優しい笑顔の人々が、世界の経済戦争の波に飲み込まれないように、心豊かに育ってくれるように、願うばかりだ。

  修道院のやっている職能訓練校では、パソコンやミシンも教えている。私たちはそこでロンジーを縫ってもらった。ここで2年ミシン技術と縫製を習った子は、卒業時にミシンをもらって故郷に帰り、地域の人々の衣類を縫うのだそうだ。  支援物資に古いミシンがほしいのは、毎年生徒たちにミシンを渡してしまうので、新しいミシンを補充しなければならないから、と聞いた。  ここで学ぶ子供たちは、シスターたちの教育支援・職能訓練、そしてボランティアたちの物資の支援、資産家や先進国からの金銭的な支援と、いろいろな支援に支えられて育てられている。

 

      サヨナラパーティの時、彼女たちは、手に蝋燭を持ってミャンマーの歌を歌いながら踊ってくれた。 素直で明るい笑顔につられて、私たちも日本の歌「さくら さくら」を歌った。心が温かくつながるのを感じた。この若い世代が、ミャンマーの新しい歴史と文化を創っていくのだと思ったら、なんだか応援したくなった。                                                                     終り

 


宗教・教育・ボランティア-2

2015年08月22日 | カンボジア・ミャンマーの旅

ベトナム・カンボジア・タイ・ミャンマーは、同じ半島のお隣同士の国々です。

 だからどの国も同じかと言うと、そうでもなさそうです。ミャンマーのヤンコンに着いて驚いたことは、町や道が美しいことでした。カンボジアの雑然とした街やオートバイの群れを見て来たので、ことさらそう見えたのかもしれません。美しく整えられた高級住宅街の一角に緑に囲まれたスーチーさんの立派なお屋敷もありました。美しく壮大なパゴダには、しなやかな身にロンジーをまとった若い女性の姿も多く、デートスポットなのかと思ったほどです。

                                                         ヤンゴンの華麗なパゴダの屋根の一部。

  ミャンマーは仏の国といわれています。いたるところにパゴダ(仏塔)があって、どれも見事に金色に輝いています。

パゴダは「釈迦の住む家」として尊ばれ、それに寄進することは人生の最大の功徳とされました。功徳によって幸福な輪廻転生がえられると人々は信じ、何よりも功徳を積むことを重んじました。街を歩いていると、黄茶色の衣をまとった僧侶やピンクの衣をつけた尼僧たちに出会います。ミャンマーには、今も確実に仏教が息づいているようです。それも日本とは少し異なる戒律の厳しい大乗仏教の教えのようです。以前・タイの農家に泊まった時、その日生まれた3個の卵の内の2個をお坊さんに寄進してしまうのを見て、どうして家庭で食べないかと驚いたことがあります。その時のことを思い出しました。 この国の識字率の高いのも、各地の僧院が日本の昔の寺小屋のような役割を果たしているからだとも聞きました。仏教が、人々の暮らしの上i位にあるようです。

                                                     王宮の入り口、大砲がおかれている。戦時が偲ばれる。

  パゴダばかりではありません。マンダレーにはミャンマー最後の王朝の王宮跡が残されています。1辺が3キロの正方形の周りに濠をめぐらし四方に橋をおいてある形は、日本の皇居とそっくりです。現在は観光地化されていますが、1885年イギリスによって占領され、さらに1942年には日本軍が占領、その後日本軍とイギリス軍との戦いの場となった場所です。

                                                         マンダレー・金色に輝くパゴダ。

 あまりにも文化遺産が多いので、改めてミャンマーの王朝の歴史を辿ってみました。

 紀元300年、インド思想や学問がインドから伝わり、ビルマ土着の信仰と交じりあった独特の文化を形成しています。バガン王朝時代には、宗教、知識、科学、仏歴、天文学、占星術などが学ばれ、さらに、9世紀、白居易の著書「驃国楽」の中には、この地で歌舞や楽曲が奉納されたことが記されています。日本より遥か昔から大陸と交流しながら、各地で王族が権力を握っていったのです。

そんな国で、キリスト教はどんな活動をしているのでしょうか? 私見ですが次に記します。


宗教・教育・ボランティア-1

2015年08月02日 | カンボジア・ミャンマーの旅

 だらだらと枝葉末節についてばかり書きましたが、

本来の目的、ボランテアについて少し記しておきたいと思います。

 修道院の宿舎に荷物を運んでくれる寄宿生たち

写真は、私たちが泊まった修道院の一角にある宿舎。今回の旅行は「セブの少女たちに布地を送る会」を主催する河村恵子さんの企画「カンボジア・ミャンマー・スタデイツアー」に参加したものです。ツアーといっても参加者は川村さん夫妻と私を含めて3人だけの、ささやかなツアーです。

主催者の河村さんは、サレジオ会に所属する熱心ななクリスチャンで、ボランティア暦30年の女性です。そんな関係で、私たちは「サレジオ会」の修道院に受け入れて頂いたのです。(キリスト教にもボランテァにも関係のない私は、いわば好奇心だけの参加でしたが、それでも大きなサムソナイトに古着をいっぱいに詰めて、自分の持ち物は極力控て、ボランティアの覚悟で出かけたのです)。

 日本の高校生からの古い上履のお土産。古くてもうれしそう。

ここはカンボジアの寄宿舎の中、みんな集まってミーティング。子供たちは、驚くほど素直で明るい。みんなニコニコしていて愛らしい。修道院は、家族のように私たちを迎えてくれた。河村さんたちの30年間におよぶ ボランティアの賜物である。

 

カンボジアは、長い戦争の後も、ポルポト政権の支配下にあって、数々の悲惨な体験を重ねてきました。100 万人もの人が殺され、人口は激減、平均年齢 20数歳と言う若年層ピラミッド型の国になりました。教育制度は廃止され、さらに教師を初めとするあらゆる知識階級の人々が無残に殺害されたため、字を読める人が少なく、教師になる人材が極端に減ってしまいました。その上、貧しさのために小学校教育を最後まで受けられず、売られたり、働きに出されたリする子供も少なくありません。小学校を卒業できる子供は全体の52%に過ぎないのです。

It is enough  that you are  young  for  me  to love you . 

ここの学校の校舎の壁に書かれていた言葉。

私はここで初めてサレジオ会の創始者 ドン・ボスコという人のことを知りました。彼は、神父であると共に教育者でした。1841年、彼はトリノで「オラトリオ」という新しい教育事業を始めます。それは、若者たちのための運動場のある夜間学校で、仲間作りと祈りの場でもありました。やがて、それは職業学校になり、寄宿舎などを併設する教育の場になりました。ドン・ボスコは若者を大切にしました。「君が若者だというだけで大切に思う」「本来人間に備わっている良心,神から授かった種を健全に育てる事」それこそが教育と。ドン・ボスコのそうした理念は、その後もずっと「サレジオ会」によって受け継がれていきます。

それは今、カンボジアの地でも実践されていました。

 

荒れてスラム化したプノンペンの郊外、近くにはバラックが立ち並ぶ。

 

その地に建てられた校舎。シスターたちはここで

地域の子供たちに勉強の補修をし、大人の相談事にも付き合う 。

戦後、長い苦難の道を歩んできた ベトナムと・カンボジア・ミャンマー。この地で、貧しい若者たちに教育の種をまく人たち。河村さんたちが続けてきたのも、そうした貧しい子供たちへの支援です。就学支援を受けられた子は、修道院の寄宿舎で生活しながら教育を受けられるのです。それは彼らにとってかけがえのない未来につながる道なのです。

帰途、支援を受けている子たちが見送りに来て、日本のお母さんに抱き着きハグしている姿を見ていると、彼女たちが教育と共に心も育てられているのを感じるのです。


ジャック フルーツ

2015年07月30日 | カンボジア・ミャンマーの旅

ミャンマーでは、今まで見たこともないたくさんのフルーツと出会った。

ドリアン  パパイヤ  マンゴー  マンゴスチン  ランブータン  バナナ。食卓には、珍しい果物がこともなげに並んでいた。ちょっと前に市場で買ってきたような新鮮で野趣にあふれたものだ。そんな果物の中で、珍しかったのがジャックフルー かなり大きな木の幹から茎のようなものが出て、そこにラクビーボールのような実がいくつもなっている。

        最初は気が付かなかったが、よく見ると実のなっている木があちこちにある。高価なものではなくありふれた果実らしい。皮をむくとブドウの房状に下記の写真のような果肉があらわれる。黄色い果肉は、もちもちとしてクリーミーだが、外観に似て大味。この中にまた種が入っている。車の通る道沿いには、日本の田舎でスイカを  売っているように山積みのジャックフルーツが売られている。

       

  写真は中身の果肉  。 あまりの大きさとその実のなり方の面白さに「ジャックフルーツ・ジャックフルーツ」と騒いだので、シスターたちが、面白がってお土産に、黄色い果肉の中にあるクルミくらいの種をくださった。ちょっと芽の出かかったものもある。

                                          「今度ミャンマーに来る時には、日本産のジャックフルーツをもってきてね」と。 

                                                     今、その種は家の植木鉢の中だが一向に芽のでる気配がない。 

 

(以下ウィキペディアから引用)

常緑高木。幹や太い枝に連なってぶら下がる果実は長さ70cm、幅40cm、重さ40-50kgに達することもあり、世界最大の果実といわれる。果実の表面には数mmのいぼ状の突起があり、熟すと全体に黄色になり、強烈な甘い匂いを放つ。果実はクワ科の特徴である集合果で、花序を形成する組織の多くが合着して果実となる。繊維状にほぐれる淡黄色から黄色の果肉仮種皮を食用にする。種子は2cmほどのやや長円形で、これも食用になる。実生から3年で果実をつけることもあるほど生長が早い。

 

                 


Natural Fashonー2 ・ ロンジー

2015年07月29日 | カンボジア・ミャンマーの旅

  ヤンゴンはミャンマーのいちばん南に位置する元の首都である。

 そこから北のマンダレーに移動するには、バスでも列車でも夜行で一晩かかる。  東京から大阪に行くようなものだ。で、国内線の飛行機を使うことになった。 マンダレーの飛行場には1時間余りで到着。そこにいたタクシー運転手の姿を見て私たちは思わず頷き合った。ベトナムでは見かけることのなかったロンジースタイルの男性の姿がそこにあった。それがまたダンデーだったのだ。

 上の写真は、ミャンマーでは高名な画家の先生のロンジー姿。色の組み合わせがなかなか素敵だ。

ランジーとは、一枚の布をぐるっと輪に縫った腰巻のようなもの。ビルマ語で男性用をパッソー、女性用をタメインという。写真下のように、普段着にも

このようにロンジーを使う。1枚の布は洗濯も簡単、干すのも簡単、木綿だから着ていて涼しい。1枚の布を巻き付ける方法はサリーも同じ、暑い国のナチュラル・ファションなのだろう。

白いワイシャツに光沢のあるロンジー姿で飛行機に乗っている男性。華奢な美しい腰に派手なのロンジーを巻いている娘さん等々、たくさんの素敵なロンジー姿に出会ったのだがいい写真がないのが残念!

 上の写真は、カッチン族の手刺繍の布地。私が購入して女の子にロンジーに仕立ててもらった。驚くほど安い。手仕事が賃金に換算されていないのだ。


Natural Fashon ・ タナカ

2015年07月24日 | カンボジア・ミャンマーの旅

本格的な夏の到来である。日本の女性たちは、日焼けを嫌ってSPF35とか50とか日焼け止めクリームを顔にぬる。  ミャンマーで驚いたのは、道行く女性たちが頬に白っぽい泥(ドロ)のようなものを塗っていることだった。最初は、よくサッカーの応援なんかで見かける「いたずら」?かと思った。ところが、女性ばかりではない、子供の顔には、もっとたくさんの白いドロがぬり付けられている。幼稚園に行ってみると全員の顔に白化粧がぬられている。

 

ああ、これは  きっと母親たちの愛情表現なんだ!

子供たちの顔には、「丁寧に」「それなりに丁寧に」「とてもユニークに」というように思い思いのタッチで白化粧が施されている。

  これを、ミャンマーの伝統的な化粧法で「タナカ」という。タナカは、日焼けから肌を守り虫除けにもなる。タナカの木をすりつぶして泥状にたものだから「タナカ」というらしい。私もやってもらったが、つけるとスーと涼しくなる。木の質によって色も異なり、黄色のものがより良質といわれている。

 

 タナカの木は栽培されており、こうして街角でも売っている。これこそミャンマーの伝統的なナチュラル・ファションなのだと納得。


美しい高原の町・ピンウールィン

2015年07月21日 | カンボジア・ミャンマーの旅

  「ピンウールィン」って言われても、何のことかさっぱり判りませんよね。

   実は私も、ピンウールィンがマンダレーからどのくらい遠いのか、どういう町なのか、何も判っていないまま、「マンダレーから山を一つ越えた向こうの町」に向かうというシスターの車に乗り込んだのでした。ところが道は次第に険しい山道になり、曲がりくねった急こう配の坂道を行くこと2時間余り、やっと峠を越えたと思った頃に表れたのがピンウールィンの町でした。山奥の小さな山村を想像していたのですが・・・。

            お世話になった修道院・何処かイギリス風な感じがする。「ピンウールィン」というのは町の名で、昔の日本人ならメイミョーといった方が判りやすいとか。            

 実は、ビルマは、太平洋戦争末期には日本兵とイギリス兵との戦いの地でした。ビルマの竪琴の舞台は、タイの国境に近いマンダレーの山地だったと記憶していますから、この地も厳しい戦いの場だったことがあるのでしょう。 19世紀の末、ビルマを植民地にしたイギリスは、ビルマの暑さに困惑して、イギリスの気候に近い地を捜しました。そして発見したのがピンールィンだったのです。マンダレーの東70キロメートル、海抜1100メートル、高原は心地よい涼しさでした。イギリス人はこぞってこの地に家や別荘を建てました。その名残がいたるところに見られます。

 

                   

                                 ピンールィンにある 国立カンドージー植物園。

1.6平方kmと広大の土地には、池あり水辺あり、動物や鳥たちの小屋あり。    何よりのびのびとしていて緑が美しいのです。園内には小さな車が走っていて、広い園内を回ってくれます。 この公園のすぐ近くに、ナショナル・ランドマーク・ガーデンというのがあります。ミャンマーのいろいろな建物や名所がミニチュアガーデンのように作られていて、楽しめる遊園地のような公園です。

                                                                             

アニサカンにある落差45メートルの滝、赤い岩肌を白い水がまっすぐに流れ落ちる様は迫力があります。

 

 

 さっと案内して頂いた ピンウールィン は、近代的な明るい観光の地という印象。現代のミャンマーの持つ可能性の一面を見せて頂いた感じです。今回は、とりあえず美しい自然だけをご紹介しました。いろいろな珍しい出会いはつぎに・・・。


食べるお茶・ラぺソーの話

2015年07月15日 | カンボジア・ミャンマーの旅

  「ミャンマー」といっても軟禁されていたアウンサン・スーチーさんのことと、ずっと昔、映画で見た竹山道雄の「ビルマの竪琴」くらいしか知識のない私は、出発間際になってたった1冊「ミャンマー・いまいちばん知りたい国」(中村羊一郎著)という本を読んだ。付け焼刃もいいところだが、これが思いがけなく役に立つことになった。

  お世話になった修道院での食事の時に「あれ!」と思うものに出会った。それは緑色の葉っぱを蒸して油につけた炒め物とも漬物ともつかない奇妙な食べものだった。食べてみるとそれはお茶の葉の感触である。

 そうだ! これが食べるお茶、ラぺソーだ!!

  実は、ひそかに「ラベソー」なるものを探していた矢先のことだった。 教会ではイタリア人のシスターもベトナム人のシスターもカンボジア人のシスターも、ご飯にかけたりパンに付けたり、当たり前のようにこのお茶の葉を食べていた。たどたどしい英語で「これがお茶の葉」かを尋ね、それが「ラぺソー」だとわかった時の感激!!

  実は、中村羊一郎氏の著書「ミャンマー」は、 そもそもお茶のルーツを訪ねてミャンマーを訪れたことから始まった民族学的な要素の強い著書で、少数民族のことやミャンマー人の日常的な暮らしをとおして、開発の進む現代ミャンマーを見据えたものである。そんな中に食べるお茶「ラぺソー」のことが詳細に記されていた。お茶の木は、標高の高いマンダレーが主生産地であり、マンダレーの山地が今回の私たちの旅の目的地でもあった。ラぺソーに出会わないはずはない。

   

  次の日の朝、教会の裏道を散歩していると、小さな掘っ立て小屋の店があった。なんとその軒先に、ビニール袋に入ったラぺソーがつるさがっているではないか。多分現地のお金でもⅠ~5円くらいだろう。ミャンマーでは、ごくごく庶民的な食べ物として、お茶が食べられているのだ。(お店の主人と記念撮影)

 

 

ほら、これがラぺソー

せっかくの機会だから、ラぺソーについて記しておく。

蒸した葉を揉んでから大きな籠やコンクリートの穴に詰め込み空気を遮断して発酵させる、これがラベソー。これに塩をまぶしてピーナッツなどの具を入れて油であえたのが、ラぺトッ。ちなみにラぺとは茶のことでソーは湿っているという意味。緑茶はラぺチャウという。ミャンマーの国民的なたべものである。

中村羊一郎著「ミャンマー」いまいちばん知りたい国 より)

もてなしには、真ん中にラぺソー、周りに揚げたピーナッツ  

 干した小エビ   千切り生姜  それらを各自で混ぜていただく。

お茶の漬物、遠い昔、日本人もこんな風にお茶を食べていたにに違いない、そう思わせる懐かしい味がした。


東南アジアへの旅

2015年07月11日 | カンボジア・ミャンマーの旅

 

 すっかりブログを留守にしてしまいました。

その間、ウ"ェトナム・カンボジア・ミャンマーと東南アジアの国々を巡る旅をしてきました。

旅といっても今回の目的は観光ではなく、ボランティアの一端を担うことでした。

発展途上国の貧しい子供たちへの教育支援とそれらを支えるボランティアの活動について、

さらにインターナショナルな教会の在り方と活動について、目からうろこの新しい世界との出会になりました。

訪問地はカンボジアのプノンペンとミャンマーのヤンゴンとマンダレー。

いずれの町も今世界が狙う新しい開発拠点です。開発の活気と混沌とがまじりあった町々の、その底に流れるのは独自の文化と伝統。おいおいレポートしたいと思いますが、それらはとても興味深く魅力的です。でも、新しいカメラを持って行ったのが失敗のもとで、写真がうまく撮れていないのが残念です。

とりあえずブログをお休みにした理由と近況報告まで。