一年前とまったく同じ日に
ユウゲショウの花が こんなにいっぱい
雑草ぎらいの隣人に完全に刈り取られてしまうのに・・・
それでもめげずに、一年経つと ちゃんと出てきて花をさかせる。
早朝から 草刈り機の音、窓を開けてみたら、
夕化粧の花はもうなく、あるのは、赤茶けた空き地だけでした。
一年前とまったく同じ日に
ユウゲショウの花が こんなにいっぱい
雑草ぎらいの隣人に完全に刈り取られてしまうのに・・・
それでもめげずに、一年経つと ちゃんと出てきて花をさかせる。
早朝から 草刈り機の音、窓を開けてみたら、
夕化粧の花はもうなく、あるのは、赤茶けた空き地だけでした。
赤と白と桃色と、一本の木に三色の花をつけるという珍しい桃の苗木を頂きました。
福沢桃介(福沢諭吉の娘婿)が、仕事でドイツに行った時に偶然にその珍しい桃の木と出会い、その苗木を三本だけ譲ってもらって、日本に持ち帰ったという桃の木の子孫です。1920年頃、福沢桃介は木曽川に水力発電所を造っていました。その発電所の庭にその三本の桃の木を植えたのです。その桃の木がどんどん成長して、今では発電所の辺りはこの花桃の名所になっている、のだとか。
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頂いたのは、その桃介の血統証?つきの苗木です。枯らしてはいけないと、大きな植木鉢を買ってきて植えました。「桃栗三年」といいますから、うまく育てば三年後には美しい三色の花が見れるはず。
ところが、
「この桃は確かに三色の花を咲かせるのですが、花が咲いてみると一色とか二色だけだったりとかすべての木が三色の花を咲かせるわけではないのです。まさに神のみのぞ知るということです」
「水燃えて火」(神津カンナ著)より
はたして、この桃の木、どんな色の花を 咲かせるのでしょう。
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を
中国山地の日本海側に位置する島根県は、その面積の八割を森林に覆われているため、朝夕は山々から雲が立ち上り幻想的な風景をつくりあげます。上記の「八雲立つ」の歌は、まさしくそんな風景を詠ったもので、「出雲」という地名は、この「八雲立つ」からきているといわれています。古事記ではこの歌を、スサノオの命が素賀の地に宮を造る時に立ち上がる雲を見て詠んだ歌、と記しています。
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昨年、イザナミ・イザナギが国生みをした「淡路」を訪ねました。
出雲を訪れるにあたって思ったのは、国生みで産み落とされた神々のことでした。
出雲大社に参拝、「出雲神社は縁結びの神様」だけど「誰が縁結びをするの?」と思ったのです。
「神在り月」に全国から集まる神々たちが台帳を基に協議する・・・?
曖昧な知識にあきれながら、古事記を調べました。
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イザナギ・イザナミの神は、国生みをした後たくさんの神を産み落とします。が、イザナミは、火の神を生んだ後女陰を焼かれ、黄泉の国に行ってしまいます。イザナギは黄泉の国までイザナミに会いに行きます。が、イザナミはすでに死者の姿になっていて、イザナギは黄泉の国から追い返されます。天つ国に帰ったイザナギは、禊をして身を清めます。その時生まれたのが、左の眼から「アマテラス」、右の目から「ツクヨミ」、鼻から「スサノオ」です。三神は、アマテラスは「高千穂」を、ツクヨミは「夜の国」を、スサノウは「海」、を収めるように言われます。しかし、スサノウは、母を慕って泣いてばかりいます。怒ったイザナギは、スサノオを高天原から出雲に追放します。 出雲についたスサノオは、そこで、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治という大きな仕事を成し遂げます。大蛇退治に成功したスサノオは、その地の神の娘クシナダヒメを妻に迎え、それからはすっかり大人の神になって、出雲に家をつくり出雲を守ります。
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ということは、出雲大社はスサノオ神社でも不思議ないのです。ところが、スサノオは、出雲の国起こしのスタートランナーで、第2ランナーは、オオナムジ(後のオオクニムシ)になります。
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古事記の舞台も、急進展し、主役は、スサノオから六代後の孫 オオナムジに移ります。スサノオの6代後ということは数百年が経過したということです。 オオナムジには大勢の異母兄弟がいて、その八十神たちが、オオナムチを亡き者にしようと次々と作戦を練ってきます。最初は、猪と偽って赤く燃えた火で、次には、巨木の楔でオオナムジを殺そうとします。が、いずれも母が助け出します。たくさんの災難を乗り越えたオオナムジを、母親は「根の堅洲国」へ行かせます。根の堅洲国とはスサノオのいる国です。その入口の黄泉比良坂(黄泉の国の入り口)で、彼はスサノオの娘スセリヒメと出会い、たちまち恋におちます。
ところが試練は続き、今度はスセリヒメの父であるスサノオが数々の難問を課してきます。それ等を何とかやり過ごして、二人の逃避行は成功。スサノオもやっと二人を許します。そして、「お前が葦原の中つ国を治めて オオクニヌシノ神と名乗り、スセリヒメを妻とし立派な宮殿を建てて住むがよい」といいます。オオクニヌシは、出雲を中心に周辺の国々を支配し、たくさんの妻を持ち、たくさんの子を産み、出雲の王になります。
出雲神社の千木
繁栄を続ける葦腹の中つ国でしたが、今度は、天つ国の アマテラス大御神が、その絶大な権力を持ってオオクニヌシに国譲りを迫ってきます。あれこれと策略を練ってくるアマテラスに、オオクニヌシは国譲りを受け入れます。その時約束したのが、「しっかりした土台の上に、天まで届く高く太い宮柱を建て、千木をそびえさせた神殿を造って、オオクニヌシを祀る」ことでした。その後に造られたのが、出雲神社 である、と古事記は記します。
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出雲大社の帰り、近くの「島根県立古代出雲歴史博物館」に行きました。
島根県立古代出雲歴史博物館の展示物・荒神谷で発掘された銅矛
この地で発見された 銅剣・銅矛・銅鐸 が驚くほどたくさん展示されています。
見事な造形、時を経たものだけが持つ風格、静謐な美しさ、思わずため息がでるほどです。
銅鐸は完全なものばかりでなく、無残に破られたり破壊されたりしたものもあります。
出雲に何かが起こったのでしょう?
秘められた物語が、気になります。
何かの理由で破壊されたと思われる銅鐸
1984年、「荒神谷遺跡」からは、 銅剣358本、銅鐸6個、銅矛6本
1996年、加茂岩倉遺跡からは、39個の銅鐸が発掘された。
いずれも、整然とした形で埋められていた。
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出雲について書いた梅原 猛氏の「葬られた王朝」では、「かつて出雲の地には、スサノオやオオクニヌシらの支配する『出雲王朝』があった。その王朝が倒され、権力は大和に移った」と推論します。梅原氏は、その前提のもとに出雲を訪ね、検証を重ねます。そして、荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡で見つかった銅剣や銅鐸の埋蔵物こそは、出雲王朝の存在と崩壊を語るものではないか、結論づけます。
出雲には、出雲大社を中心に、佐太神社・八重垣神社・熊野神社・揖夜神社・美保神社・御井神社・斐伊神社・佐世神社・等々たくさんの神社が現存し、稲佐の浜・猪の目の洞窟・加茂岩倉遺跡・荒神谷遺跡・黄泉比良坂・等々、記紀に登場する場所や地名がたくさん実存していることは確かなことです。
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では、どうして 銅鐸は埋められたのでしょう?
どうして銅鐸を壊さなければならなかったのでしょう?
その時、出雲の民たちは何を思い、何をしたのでしょう?
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緑いっぱいのハスに囲まれた荒神谷遺跡が、古代へのロマンを誘います。
ハスあおく ロマン秘めたる 荒神谷
今年も恒例の日工会展が始まりました。会場は、東京上野の東京都美術館です。
早朝の新幹線で東京・上野の美術館に向かいました。
美術館では、午前10時のオープニングに先駆けて
出品者のための審査員による作品講評があるのです。
会場はロビー階 第4展示室
自分以外の人の目を通して作品を評して頂く機会は、なかなかないものです。
自分では見えていない作品の欠点や改良点を指摘して頂けるだけでなく、
作品についての、自分の想いや迷い も聞いて頂けるチャンスです。
今回の作品、かるいねじれ のための小品です。
前回のやや平面的な志向を、思い切って立体的に改善したつもりだったのですが、
平面志向から、なかなか抜け出せていないことがわかります。
次の展覧会への課題が、たくさん見えてきました。さあ、これからが大変です。
この展覧会の会期は、6月21(水)までです。
会場には、レベルの高い作品がたくさん展示されています。
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余談ですが、同じ東京都美術館でブリューゲル展が開催中で「バベルの塔」を見てきました。
東京芸大で行われた作品の完全拡大版の展示がおもしろかったです。
「松江には、不味流という独自の茶の作法があって、ごく日常的に食事を頂くように抹茶を頂く習慣があるの」と松江出身のお友だちに聞いたことがあります。子供の頃から、「当たり前のように着物を着て、あたりまえにお茶を点てていた」という松江のこと、おいしいお茶とおいしいお菓子に出会いたいと、舟を降りて松江大橋を渡り、老舗のお店が並ぶ街をめざしました。
「まつえ美味めぐり」のパンフレットの中から一番古そうなお店にしようと、小ぢんまりした、由緒ありげなお菓子屋さんに入ると、そこが 創業文化六年(1809年)、二百年も続いている老舗でした。その老舗の銘菓「薄小倉」をお土産にすることにしました。
一粒一粒選り分け,心をこめて煮上げた小倉餡をお菓子に造りました。 素朴でさりげなく無造作で平凡な姿、それでいて思いがけない風味のお菓子が、薄小倉です。 (桂月堂・折り込み解説から)
シャリシャリとした透明な砂糖衣の中に大粒の小豆がつまった「薄小倉」
小豆と砂糖衣の組み合わせが絶妙で、抹茶と頂いたらおいしそうです。
本当は「 不昧流」のお手前でお茶と一緒に頂きたかったのですが、
近くにお茶を頂くお店が見つからず、断念しました。
不昧流は、松江藩第7代藩主松平治郷(不昧)によって創設されました。不昧公は、江戸で茶道を学んだお茶の名手でしたが、当時の華美な茶道会の在り方を憂いて、簡素で日常的な茶の道を求めました。その精神が、松江の人々の暮らしの中に茶道を根づかせて行きました。
茶道と禅は同じ道を志す、茶禅一味の境地に到達すること。 無駄を省き、利休の侘茶に帰るべきこと。 清潔を旨とすこと。(挨拶の時にも畳に平手を付けないで軽く拳を握って挨拶する)。 華美な道具は避け、 衣服も質素な無地を使うこと。見せ場のある点前は好まず、無駄と思える所作は省くこと。 簡素なお点前で、日常的に飯を食べ汁を吸うように、 無造作にして淡々と、 潔く目立たない点前をすること。
ポンポンというエンジンの音で目覚めて窓の外を見ると、宍道湖を目指して川面を走っていくボートの姿が見えました。シジミ採りのボートです。ボートは、船体をやや傾け、水面に垂直に突っ立った人を乗せて、朝の光の中をかなりのスピードで走っていきます。町の中心を流れる大橋川から出発して、宍道湖に向かい、そこでシジミを採るのです。それには時間制限があるらしく、シジミをとリに行った舟は、時間をおいてまた大橋川に戻り、今度は川べりでシジミの選別作業をしています。
松江の中心を走る大橋川は、中海と宍道湖とをつなぐ水路のような役割をしていて、初夏の青空の下、キラキラと輝く水面をモーターボートが行ったり来たりしています。水の町の豊かな彩です。
宍道湖には約300名のシジミ漁業者がいて、シジミ漁の風景は宍道湖の風物詩となっています。
漁業者は「ジョレン」という漁具を使って、シジミを漁獲し、大きさをそろえて出荷します。
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「松江」といわれても、なぜか私には「宍道湖と小泉八雲」しか思い浮かびませんでした。
松江が、松江城を中心にした水の町であることを、今回初めて知ったのです。
松江城を囲うように張り巡らされた堀の中を、松江めぐりの乗り合い小舟が走っていきます。
近場の舟付き場から船に乗り、船をおりて用事を済ませて、また次の目的に向かって船に乗る、そんな乗り継ぎもできます。舟付き場が適当な距離にあって、道でタクシーを拾うように、舟に乗れるのです。私も、松江城を見た後、また舟に乗って、次の目的地まで移動してみました。
小舟はゆっくりと川面を走ります。時々船頭が[頭を下げて…」と言うので、乗客は思い切り体を曲げて身を屈めます。すると、するすると舟の屋根が下がってきて、低い橋脚の下を渡るのです。 時には舟幅いっぱいの水路を通り、時には川岸で洗い物をする水辺の暮らしを横に見ながら・・・ 、鷺がゐたり・・・、カメが甲羅干しをしていたりする・・・水辺を、ゆったりと走ります。
このひと時代昔にタイムスリップしたような体験、船の料金が、一日乗り放題で1230円(割引あり)というのも、観光客にはうれしいもてなしです。
川面行く 松江の旅に 栴檀花
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その昔、まだ車がなかった時代、人々の移動手段はひたすら自分の足で歩くことでした。歩いて歩いて、ひたすら歩いて、江戸までも行ったのでしょう。でも人間の足と手だけでは大量の物は運べません。流れる「水」の力を借りて物を運搬する手段を手にしたのは、画期的な発明だったことでしょう。「水」は、人々の暮らしと共にあることで、その意味をまし、なくてはならない道具になりました。 ガソリンがなくても動く車でした。
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古きよきものが今と共存し、自然が自然として大切にされている、
この町の居心地の良さは、そうした等身大の暮らしの匂いが、今もあることのような気がします。
松江は、美しい水の町でした。
日本海からの強い風や雪の降る季節に、もう一度来てみたいまちです。
これ何だかわかりますか?
不謹慎で申し訳ないのですが、ぱっと見て「オブジェみたいだ! 」と思ったのです。
*
実はこれ、出雲大社の「注連縄」です。
「注連縄」と書いて「しめなわ」とよみます。
歴史のある神社には、どこにも立派な注連縄が掛けられていますが、ここのはまた格別・・。
長さ13メートル、太さ8メートル、重さ5トン、という偉大さです。
しめなわは、本来、神の領域と人間の領域を区別するための仕切りのようなものだったのでしょうが、長い時間の間に、祭られた人も神格化され、それを祭る神社も特別なもとなると、しめなわも象徴的な存在になっていったのでしょう。神秘の象徴として昇化された形、それが今のような抽象的でシンボリックな「注連縄・しめなわ」なのではないかと思われます。
私的に言えば「芸術的」「アーティステック」「まるでアート作品のよう」、ということになります。
*
宮沢賢治は、「しめなわ」について、その授業の中でこんな風に語ったそうです。
しめなは は、 雲
垂らした藁は 雨
白い御幣は 稲妻
雲が沸いて雨が降り、雷が落ちて田んぼが豊かになれば、その年の収穫は豊穣になる。
*
科学的に言えば、雷は窒素を含んでおり、その窒素が稲の大切な栄養になる
稲作を生業としていた農耕民族の祈りのシンボルとしての注連縄論
宮沢賢治らしい素敵な授業だと感心したのでした。
*
それにしても、出雲神社のしめなわは色といい形といいその風格といい、実に美しいのです。
展覧会が終わってほっと一息、気ままな旅に出かけてきました。
旅で感じた「心にうつり行くよしなしごとを、そこはかとなく書きつづってみたい」と思います。
*
神さびた神社の参道を下っていくと、
右手の小さな池に点在して咲く白と薄紫と紫色のかきつばた(杜若)
その鮮やな色彩に思わず感嘆の声をあげました。
長い時を経てずっしりと古代色に風格をつけた建造物の中にあって、
緑と白と紫の色が、あまりにも美しかったからです。
これこそが古代人の愛でた色の世界! 夕暮れの静寂の中、一幅の日本絵を見る思いでした。
*
住みのえの 浅沢小野のかきつばた 衣に摺り付け 着む日 知らずとも(万葉巻7)
かきつばた 衣に摺り付け ますらおの きそい狩りする 月は来にけり (万葉巻17)
かきつばたは、万葉の時代にも愛されていたらしく、万葉集にも上記の歌が残されています。
かきつばたの花びらを摘み取って、布に摺り込む習わしがあったのだそうです。
それは「花摺り」という原始的な染色の技で、染めた色は数日で消えてしまうのだそうですが、
優雅で可憐、何とも楽しいおしゃれではないでしょうか!
*
「かきつばた」の語も、「描きつける花」から由来しているのだそうです。
現代のように、人工色の満ち溢れた世界と違って、自然の色が暮らしの全てだった古代では、
白と紫の色調は、この上なく美しく気品に満ちた「色」だったことでしょう。
*
実は、この花を見た時、とっさに思い出したのは、在平業平の歌でした。
「東国への旅の途中、三河の国八橋の川のほとりに、かきつばたが面白く咲いているのを見て、
かきつばたという五文字を、句のあたまにおいて旅のこころを詠んだ歌」(伊勢物語)
からころも きつつなれにし つましあれば はるばる来ぬる たびをしぞ思ふ
光琳の杜若図・(ウイキベキアより転載)
その伊勢物語に題材を得て、江戸時代の尾形光琳は、かの有名な「杜若図」を描いたのでした。
道で見かけるかきつばた(花菖蒲)を、さほど美しいと思ったことはないのですが、
この夕の この一時の 静寂な花の姿を、まことうつくしき と思ったのでした。