陶芸工房 朝

アトリエ便りです。どうぞよろしく。

ぶら~り長崎-3 キリシタンの国

2020年01月21日 | 旅行記

長崎に着いてまず気が付いたのは教会の多いことでした。

      グラバー亭から見る長崎の町と長崎港

 

そして、真っ先に頭に浮かんだのも「キリシタン」のことでした。隠れキリシタン、弾圧、踏み絵、処刑 そういったイメージは、ずっと昔、まだ学生だった頃読んだ遠藤周作の「沈黙」が強く心に残っていたからだと思います。一昨年でしたか上映されたアメリカ映画「サイレンツ・沈黙」でも、キリシタンのむごたらしい処刑の場面がリアルに映し出されていました。それも原本は遠藤周作の沈黙でした。

そんなこともあって、いつか長崎に行ったら、浦上天主堂と26聖人の碑には行こう、と思っていたのでした。 

      天主堂への階段から見る大浦天主堂

日本にキリスト教を伝えたのはスペイン人の宣教師フランシスコ、ザビエルでした。まだ日本が統一されていない戦国時代、1549年のことです。織田信長はまだ見ぬ外国の文化に興味を持ち、キリスト教を受けいれましたが、その後をついだ秀吉はこれを禁じます。秀吉は、1587年「キリシタン禁教令」を出し宣教師を追放します。「禁教令」は出されたものの、キリシタン大名がいたりひそかにキリスト教を信じる人たちもいて、しばらくは穏やかな時代が続きました。 

 

1596年、禁教令から10年ほどした頃、スペイン船サンフェリベ号が土佐に漂着します。それに乗っていた宣教師たちが、宣教活動の裏で他国征服の動きをした、という理由でフランシスコ会やイエズス会の司教とその信者たち24名が逮捕されたのでした。逮捕された司教やキリスト教徒たちは、見せしめとして京都から長崎までの道のりを引き廻され、長崎の西坂の丘で処刑にされたのです。これが、日本で初めてのキリスト教徒の処刑でした。1597年のことです。 

 

   西坂の丘のに建つ日本26聖人殉教の記念碑

                   

  

あまりにもむごい処刑の姿に、目をそむけたくなります。

が、この次の年には秀吉も亡くなっています。当時の日本は、まだまだ乱世の世で、内にも外にも強敵が控えていました。キリスト教は秀吉にとっても脅威であっただろうことが分かります。しかし、弾圧をすればするほど人々の心は内向し信仰に向かう・・・のです。

これを境に、キリスト教信徒たちへの迫害は厳しさを増します。「隠れキリシタン」「潜伏キリシタン」といわれる人々が生まれ、それはキリスト教解禁令が出される明治の初めまで続くのです。迫害はおよそ260年もの間人々を苦しめたのでした。                       

                  *  

今回長崎に行って気が付いたのは「島」の多さでした。地図で見てもたくさんの島が入り組んでいます。 内向する信仰の地として、身を潜めるのに「島」が果たした役割は大きかっただろうと思います。

さらに強く思ったのは、長崎の明るさと洗練された品の良い文化でした。

海の向こうの明るい文明と、苦難の重さに耐えた内面の深さとが、何百年もの間に融合し昇華し、まれにみる美しい作品を生み出した、それが長崎なのかもしれない、と思ったのでした。


ぶら~り長崎-2 ロボットレストラン

2020年01月15日 | 旅行記

2 ハウステンポス

「ハウステンポスのロボットレストランに予約を入れてあるから・・・」と同行の女子大生。

では夕食はハウステンポスで・・・、ということになるが、ホテルのある長崎駅からハウステンボスまでは、電車で1時間30分もかかる。それでもせっかくのチヤンスだからと、JR長崎本線長崎駅から佐世保行きの電車に乗る。 

見しらぬ地名の駅をいくつも通過、電車は諫早を通過佐世保方面に。観光案内を見ただけではわからない現実の距離感と時間にうんざり。

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 小さなハウステンボス駅に降りると、陸橋の向こうに美しいイルミナーションに輝くオランダ村。昔行ったことのある赤いレンガ造りのアムステルダム駅とその周辺の風景を思い出す。

 さて、大急ぎでレストランへ・・・、という訳にはいかず ハウステンポス入場料が5000円、さらにレストランの食事代金が3000円。 

レストランは、宮沢賢治の「注文の多い料理店」みたいな感じ。まず出迎えてくれたのはロボットくん。

部屋は赤や青紫色で彩られ、異次元を思わせる異様な空間だ。 

 

 ホットケーキを焼くロボットくん、ソフトクリームを作るロボット君、お寿司を握るロボット君、

なんともおかしなおかしな「変なレストラン」である!〈ロボットはショウだけで、実際にはバイキング形式の料理を自分で運ぶ仕組み) 

 近未来、実現するであろうロボット時代のことを、ちょっと考えてしまった。

そうなったら、人間がサービスしてくれた時代はほんとうに良かった、ということ請け合いだ。

ロボットはまだまだぎこちなく味気ないのだ。 

 

ロボットの握りし寿司食す令和の正月  


ぶら~り長崎

2020年01月07日 | 旅行記

 

 青い空・蒼い海、丘の上には白い家々、飛行機から眺める長崎は、まるで春の光に輝く箱庭のようです。

                * 

お正月休みを「長崎で遊ぼう」という私たちにとって、この南国を思わせる美しい舞台は最高のシチュエーション!

同行のメンバーは、ロボット工学を勉強中の女子大生、三井住友系の会社を職場とするサラリーマン男性、都内の某大学で教鞭をとる女性教師、そして私(最高齢)の4人です。年代も興味も違う4人が、ぶら~り楽しんだ、長崎のレポートです。 

 

 1  軍艦島クルーズ 

お正月の穏やか朝、私たちを乗せた軍艦島クルーズは長崎港常盤桟橋から沖に向かって出航しました。目指すは端島又の名を軍艦島。ご存じの方も多いと思いますが、「軍艦島」は長崎港に浮かぶ小さな海底炭坑島です。この島で石炭が発見されたのは1810年のことでした。最初は佐賀藩が小規模な採炭を行っていましたが、明治に入り本格的な開発が始まると、1890年三菱がこれを買収、本格的な海底炭鉱として操業を開始しました。

     現在の軍艦島・遠くから見るとまるで軍艦が停泊しているよう

やがて日本が富国強兵を掲げて世界に進出し始めると、石炭は重要なエネルギー資源として需要を増していきます。坑道は拡長し炭鉱夫は増大し、小さな島には子供の学校が建ち、坑夫の住む鉄筋コンクリート造りの高層アパートが建ち、マーケットが建ち、映画館が建ち、娯楽施設が建ち、病院が建ちというように、さまざまな施設がコンクリートでつられました。その姿が海に浮かぶ軍艦を思わせたのでしょう、盛期には5300人もの人々が住み、人口密度は東京都の9倍という「軍艦島」が誕生しました。海の孤島に5300人もの人々が閉じ込められたような生活は、さぞや壮絶だっただろうと思いますが、賃金は内地のそれよりはるかに高かったそうです。この島の石炭採掘の量と人口の増加は、1945年の敗戦の頃まで続きました。

 

エネルギーの需要が石炭から石油に移ると、日本の多くの炭坑が廃坑になりました。1974年、端島炭鉱もその役割を終えます。島で働いていた人々も島を離れ、島は無人島になりました。廃墟になった島は荒廃していきました。が、2015年、「明治日本の産業革命遺産」の一つとして「世界文化遺産」に登録されると、再び観光地として脚光を浴びるようになりました。

今回私たちが参加した「軍艦島クルーズ」にも、かなりの参加者がありました。

              * 

実はこのクルーズで、私が面白いと思ったのは、 軍艦島から対岸に広がる広大な長崎工業地帯でした。

狭い入り江を取り囲むように広がる長崎の町、丘に囲まれたその擂鉢状の地形が船の出入りに適していました。1855年、幕府は国防のために、ここに造船所設立を許可し海軍伝習所を設立します。オランダからヌームビング号を提供してもらい、幕府の練習船とします、この船で航海術を学んだのが勝海舟でした。1861年、さらにここに長崎鎔鉄所を建設します。この時、製鉄の技術者がオランダから乗ってきたのが「咸臨丸」だそうです。

「必要な建物やドッグを設計したり、レンガや瓦を焼くために窯を作ったり・・、何から何まで初めからつくりださねばならなかった」という日本の産業近代化でしたが、1年後には蒸気機関用の全部品を日本で製造するまでになったのでした。

1868年(明治元年)ここに官営の長崎製鉄所ができ、それが長崎造船になりさらにこれを三菱が払い下げて、現代の「三菱」の基楚ができたのです。長崎の造船技術は、まさに日本産業の近代化の大動脈の役割を果たしたのです。

           今も大型船が沢山停泊している港のドッグ        

軍艦島クルーズは、端島までの40分あまりの時間を、これら対岸の世界遺産について詳しく説明してくれます。江戸末期から明治維新に至るオランダ商人グラバーのことや、坂本龍馬のことや・・・、この地を取り巻くさまざまな出来事を目じかにしながら話を聞くと、波乱に満ちた明治維新の姿が鮮やかに思い浮かびます。そして改めて長崎ってすごい所だな、と思うのです。

ちなみにこのコースを選択したのは男性メンバーでした。これは現代のエリートサラリーマンの課題とも通じるからかな、と思った次第。 

  *パソコンの具合が悪くなかなかブログが書けない状態です。「早くなんとかしなくっちゃ」と思っているのですが・・・。

 


陶芸工房朝展終了しました。

2019年07月04日 | 旅行記

 あいにくの天候で、外出が思いやられるような日々が続きましたが、多くの方にご来場いただきました。

ありがとうございました。

 

 

                                                  おかげさまで、第15回目の陶芸展を無事に終了することができました。

                                                                               あらためてお礼申し上げます。

 


旅の記憶ー1

2019年01月20日 | 旅行記

ベッドの中で目をつむっているのに、確かな感覚として感じるのだ。

 

ちょっと飛び上がって、地球の上を半周飛んで、着地したら、そこは夏の海だった。

 

                                  ワイキキ海岸

 

青い海の近くには、色とりどりの布をまとっただけのサンダルばきの人たちが、ぞろぞろと海辺を歩いている。

何をしているのかよくわからないが、当然のようにそこにいて、当然のようにそこを歩いている。

 

 

カラカウア大道り(写真はウイキペディアより)  

 

ああ、ここは、いつもの世界ではないんだっけ、別の世界だったよね! 

同じ今の、同じ地球の表と裏というだけなのに、なんだかタイムスリップみたいだ。

 

ホノルル 美術館で、インドネシアの古代人の作った木馬と出会った。

なんともかわいい美しい木馬だ。

 

ホノルル美術館のアジア棟の一室 

 

動物の骨か牙のようなものを削って三角形にして、花の模様を木馬の胴体にうめている。

ちょっと長めの胴体がバランスの良い美しさを保つのにはどうしたらいいのかと、

あれこれ考えながら試したんだろうな、そんな気がする。 

 

 

「しっぽの上げ方は、どの角度が一番いいだろうね」

「そう、その曲線がいいね、そのバランス!  その模様!   とっても素敵だよ!」

ずっと昔、これを作った人と出会って、こんな会話をしているような気がしてくる。

ずっとずっと昔の私の祖先のそのまた昔の遺伝子が、私の中でかすかに疼いて、そう思わせる。

 

私にとっての旅は、距離の長さだけでなくて、時間を遡ることでもあるようだ。