長崎に着いてまず気が付いたのは教会の多いことでした。
グラバー亭から見る長崎の町と長崎港
そして、真っ先に頭に浮かんだのも「キリシタン」のことでした。隠れキリシタン、弾圧、踏み絵、処刑 そういったイメージは、ずっと昔、まだ学生だった頃読んだ遠藤周作の「沈黙」が強く心に残っていたからだと思います。一昨年でしたか上映されたアメリカ映画「サイレンツ・沈黙」でも、キリシタンのむごたらしい処刑の場面がリアルに映し出されていました。それも原本は遠藤周作の沈黙でした。
そんなこともあって、いつか長崎に行ったら、浦上天主堂と26聖人の碑には行こう、と思っていたのでした。
天主堂への階段から見る大浦天主堂
日本にキリスト教を伝えたのはスペイン人の宣教師フランシスコ、ザビエルでした。まだ日本が統一されていない戦国時代、1549年のことです。織田信長はまだ見ぬ外国の文化に興味を持ち、キリスト教を受けいれましたが、その後をついだ秀吉はこれを禁じます。秀吉は、1587年「キリシタン禁教令」を出し宣教師を追放します。「禁教令」は出されたものの、キリシタン大名がいたりひそかにキリスト教を信じる人たちもいて、しばらくは穏やかな時代が続きました。
1596年、禁教令から10年ほどした頃、スペイン船サンフェリベ号が土佐に漂着します。それに乗っていた宣教師たちが、宣教活動の裏で他国征服の動きをした、という理由でフランシスコ会やイエズス会の司教とその信者たち24名が逮捕されたのでした。逮捕された司教やキリスト教徒たちは、見せしめとして京都から長崎までの道のりを引き廻され、長崎の西坂の丘で処刑にされたのです。これが、日本で初めてのキリスト教徒の処刑でした。1597年のことです。
西坂の丘のに建つ日本26聖人殉教の記念碑
あまりにもむごい処刑の姿に、目をそむけたくなります。
が、この次の年には秀吉も亡くなっています。当時の日本は、まだまだ乱世の世で、内にも外にも強敵が控えていました。キリスト教は秀吉にとっても脅威であっただろうことが分かります。しかし、弾圧をすればするほど人々の心は内向し信仰に向かう・・・のです。
これを境に、キリスト教信徒たちへの迫害は厳しさを増します。「隠れキリシタン」「潜伏キリシタン」といわれる人々が生まれ、それはキリスト教解禁令が出される明治の初めまで続くのです。迫害はおよそ260年もの間人々を苦しめたのでした。
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今回長崎に行って気が付いたのは「島」の多さでした。地図で見てもたくさんの島が入り組んでいます。 内向する信仰の地として、身を潜めるのに「島」が果たした役割は大きかっただろうと思います。
さらに強く思ったのは、長崎の明るさと洗練された品の良い文化でした。
海の向こうの明るい文明と、苦難の重さに耐えた内面の深さとが、何百年もの間に融合し昇華し、まれにみる美しい作品を生み出した、それが長崎なのかもしれない、と思ったのでした。