陶芸工房 朝

アトリエ便りです。どうぞよろしく。

谷津山・樹木の伐採作業

2015年02月25日 | 日記・エッセイ・コラム

       

春山に   チェインソー響き    若者の明るき声降る  

 谷津山では、ここ数日チェインソーの音も賑々しく樹木の伐採作業が行われています。高さ数十メートルもある大木の中ほどに、木を切る人の姿が見えるでしょうか。一年に数メートルもの勢いで成長する山の木々は麓の住民から太陽を奪います。住民の陳情で公園の樹木の間引き作業が実現しました。チェンソーの音と一緒にバサッと大木の枝が落下します。下から見上げていても、なかなか豪快な見ものです。

 

後ひと月もすると、このあたりはさくらが満開になり、一年中でいちばん美しい姿になります。

(写真・我が家の前の谷津山登り口付近。木々が間引きされすっきり)


蕗の董

2015年02月22日 | 野草

  今朝、起き抜けに庭で摘んだ蕗の董です。「今頃フキノトウ なんて、とっくに食べたよ」といわれそうですが、いいのです。山の斜面にへばりつくようにして咲いている蕗の董は我が家の春の象徴、花の咲く前に採るのはしのびないのです。

 

 はるいろは   しあわせのいろ   ふきのとう

(こうして焼き締めの皿に盛ると、そのままお茶席の主菓子のようでしょ)

 

 


犯人は誰だー2

2015年02月15日 | 日記・エッセイ・コラム

 ぽかぽか陽気に誘われて庭に出ると、二月の陽射しは明るく、あちこちで山野草たちが目覚め初めています。貝母ユリ、ヒトリシズカ、春蘭、ショウジョウバカマ、蕗ノトウ・・・。

ところが、先日咲いたばかりのクリスマスローズがまたもや何者かに食いちぎられています。

 よし、今日こそ犯人を逮捕してやるぞ!

 木の枝にみかんをさしてじっと待ちました。現行犯逮捕です。でもなかなか犯人は現れません。二羽のヒヨと一羽のジョウビタキが近くまで来るのですが、みかんには近づきません。

 二階の窓の中からカメラ片手に待つこと小一時間、待てど暮らせど犯人は現れません。結局犯人をカメラに収めることはできませんでした。でも、椿の花もブロッコリーも蝋梅の花もクリスマスローズも、いつの間にか誰かに食べられていることは確かなのです。

   追記・次の日の朝、木にさした3個のミカンは、見事に姿を消していました。

                 またもや犯人は「食い逃げ」してしまったのです。

 


ナチュラル・ファション・Natural Fashon

2015年02月09日 | 日記・エッセイ・コラム

 ものを作る仕事をしていると定期的に行きづまるものだ。何をどう創ろうかと思い悩む。

そんな時、なんとも衝撃的な本と出会った。エチオピアの奥地に生活する少数民族のファションを撮った写真集NATURAL FASHON  以下、本文を引用しながらご紹介しよう。

 太古の昔から、このリフトと呼ばれる地域には15の部族がいたが、その中のスマル族とムシル族という仲の良い部族は、ボディペインティングと自然から借りた素晴らしい装飾物を身ににつけるという共通の嗜好を持っていた。 

 人々は母なる自然からたくさんのものをかき集め、身を飾ること楽しみとしだした。帽子のように草の束をかぶる。スカーフや襟巻を結ぶように、バナナの葉や枝や花を三つ編みにして首を飾る。

 

ほとんど丸裸で滑らかな肌をしているので、身を飾る自由度は大きく、その体は芸術的な手術をほどこすのにうってつけで、生の素材はどんな装飾ファンタジーをも受け入れることができる。自然の顔料によるボディペインティングは身体の美化に抽象的な要素を加える。正確さ、シンメトリーは彼らの目的ではない。彼らはもっと深い何かを表現しようとしている。正確に二つを分けることよりも、より微妙な何かを。

 

 彼らは、谷に広がる火山土の層から、白色や黄色、赤色などの岩石を採ってきてそれを粉状につぶして絵具を作る。キャンバスは自分の体であっても、鏡というものがないから見せるのは他者なのだ。 それって、現代アートとどこが違うのだろうか。油絵にしても、私が常日頃器に試みている白化粧にしても、オブジェにしても。 

 太古の昔から行われてきたその術が、脈々と私たちの皮膚の奥深くにしみ込んでいるのだとしたら、何かを探すのは外ではなく、自分の中なのかもしれない。

もし誰の中にもアルカイックな失われたセンシュアリティがあるのなら。

(ナチュラル・ファション・ハンス・シルウェスター・DO  BOOKS)

 

 


9・11 のこと

2015年02月01日 | 日記・エッセイ・コラム

 2001. 9.11、あの日、ボストンから帰ったばかりの姪と一緒に、テレビの前に釘づけになってテロの報道を見つめた。姪はアメリカに残してきた友人知人たちの安否を自分のことのように心配していたが、私は、アメリカに対するイスラムの憎しみの構造のすさまじさに唖然としながらも、自分とは直接に関係がないことと冷静だった。

今朝、イスラムに拘束されていた後藤さんが殺害されたとの報道をきいた。

日本中の人々が、いえ世界中の人々がかたずを飲んで見守る前でのことだ。胸がキューンと締め付けられた。重たいものが胸の奥の方につかえて離れない。これは、まさしく日本人への挑戦だ。

   誰かが、これは日本への「 9・11」だと言った。

 どうして日本人がこのような報復の標的にならなければならなかったのか、もっと言えばこれだけみんなが釈放を願っていたのに、なぜ後藤さんを殺されなければならなかったのか、私には理解できない。

 しかし、今回つくづくと思ったことは、私たちは中東の国々についてあまり教えられてこなかったということ。イスラム教についても、中世から続く国境争いの紛争の歴史についても、今に続くという民族間の紛争についても、中東の国々の持つ複雑な事情についても、あまりにも無知であった。同じような理由で、現在のトルコのおかれている事情も、囚人解放の決断の付かなかったヨルダンの抱える事情も、判っていなかった。

 今、私たちが当たり前にようにしている平和が、世界に共通のあたりまえでないことも判っていなかった。 憎しみの連鎖は増殖し、殺しても殺してもとどまることがないのだとしたら、人は一体どう生きたらいいのだろうか?  考えてしまった。