新潟地理歴史・写真撮影:2008.10.26
まずは長岡市与板支所産業課・長岡市与板城主「直江兼続」のパンフから。
この方上杉景勝や直江兼続ら、大河ドラマ・天地人に出てくる歴史上の人物を紹介しているが、それらの関係が整理されていない。やはり、登場人物の関係がわからないと具体的イメージがわきにくい。思い立ったのはいただいたコメントからである。
まずはその辺を示す資料を紹介しておく。なお、紹介した図のやや大きめサイズのものはこちらのリンクをご利用いただきたい。系図拡大版・こちら。
資料から抜粋
天正九年(1581)、兼続21歳の時、お船の方とともに与板に入った兼続は、直江二代の本与板城に次いで、新たに与板城を築き居城とした。別名、陰城(本与板城)、陽城(与板城)と言われる。
兼続は、直属の家臣百二十一名を与板衆とし、これに強い権限を与え、年貢、検知、水利事業、農政、産業の振興など与板をはじめ、越後全土に渡り国づくりを進めた。米沢に移っても中心となって活躍したのである。
▲長岡市与板支所産業課・長岡市与板城主「直江兼続」
Photo-01 (山頂へと向かう途中におせん清水がある。)
おせん清水
直江兼続の夫人、おせんの方は三歳年上の姉山女房でとても賢い女性でした。兼続との間に一男二女の子どもがおり、夫婦仲も非常に良かったようです。上杉景勝の子で第二代米沢藩主である定勝の信頼も厚く、米沢では3000石もの領地を与えられました。おせんの方は、この清水でお茶をたてられたと伝えられており、「おせん清水」と呼ばれています。長岡市教育委員会
Photo-02 (おせん清水を過ぎるとまもなく山頂が見えてくる。)
Photo-03 (この鳥居をくぐって最後の登り。もうすぐである。)
Photo-04 (兼続手植えの杉の一つと伝えられる一本杉。)
城の一本杉
長岡市指定文化財
戦国時代の与板城跡の本丸に聳える「城の一本杉」とよばれ町民に親しまれている。樹齢約400年・根本周6.6メートル。目通周3.5メートル。この杉は、慶長三年与板城主直江山城守兼続が会津移封のおり記念として杉五本を植えられたものであると言われており、往時を偲ぶにふさわしいものである。
城山に憶う
天与の城山鉄牢に比し、中部満眸眼漏に治む城主活乱の城山制す文武の俊傑城州公
Photo-05 (ここが実城。本丸跡である。)
Photo-06 (社は城山稲荷社である。)
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写真撮影:2008.10.26 長岡市与板
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2008年 地理の部屋と佐渡島
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http://blog.goo.ne.jp/dachasnowman/
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本だと、系図が説明されて読んでると、引き込まれますが、ドラマは、説明不足ですから、目の前の事しか、
解らなくて、エッ!ここは、違うよね、なんて!思う
事が有ります、
城の一本杉、400年も人間の生き様を見てきたのですね、此処まで来ると、ご神木ですね
いろいろ勉強になります。
樹齢400年に感動しました。
本題と関係のないコメントをお許しください。
私明日から一週間ブログをお休みとさせていただきます。
よろしくお願いします。
その時この与板の町を通りましたが、いつも素通りでした。
こんな城跡があったなんてまったく知りませんでした。
もう寺泊航路がカーフェリーでなくなり、ここを通ることもなくなりました。
直江津航路がなくならないよう、祈っています。
本当に気になりますね。
百年、いやに百年三百年と..。
一本杉。ほんとうにご神木となっているか
のようですね。もしかしたら兼続手植えの
杉。いつまでも与板で育って欲しいものです。
色々参考になる資料がありますので、
それらの紹介も平行してやっていき
たいと思っています。ドラマが始ま
る頃には、ご覧の皆さんはちょっと
した越後通、兼続通に..(笑)。
ご紹介のルートですと、もしかしたら
与板橋をわたっていましたかね。次回
あたりにその橋がでるかも知れません。
了解しました。
再開を楽しみに待っています。