裏磐梯の早朝の1時間ほどの散歩で撮影したiPhon画像で1週間のブログを繋いでしまった。どんなに良い景色に遭遇しても撮影機材を手元に持っていなければ意味がない。そういう点でいつもポケットにいれられるというスマホ機材は撮影機材の第一の目的を満たしてくれる。それが満たせなければ、ニコンだろうがキャノンだろうが関係ない。やはりデジタルがめざした世界は、従来の撮影機材に対する認識を変えてしまったのだろう。
もう一つデジタル化で変わったものがある。それはワーケーション、つまり働き方。例えば帰省中に突然会議が発生し帰省先からパソコンで参加し勤務として認められたり、合宿免許講習中に午後からパソコンでフルタイム勤務したりといった具合にである。
私は海外で大学の事務仕事を片付けているのが当たり前だったから、その働き方はよくわかる。海外のフィールドにいて「明日科研の書類の提出日ですけど・・・云々」といったメールは頻繁にくる。いいかえれば地球の大都市部にいれば仕事は追いかけてくる。私のテイストからいえば、海外にいる時に事務仕事をするような頭ではない。だから私流のワーケーションがある。つまり連絡を取れなくしてしまう。
それは、私の同僚から教わったことだが、つまり海外出張に出たら、海外仕様のスマホに取り替えて事務からの連絡が届かなくする。事務に容易には連絡が取れないところに出張していると認識させておくわけだ。実際インターネットなんか届かないところは、地球上にはいくらでもある。まあ帰国したら海外の安菓子でも事務にあげれば喜んでくれるというわけだ。我々のフィールドを全く知らない文化系事務だから、実力行使で連絡が取れないことを認識させる必要があるのだ。
私の場合は自由裁量労働だったから、働く場所と時間は自分で決めなさい、ということになる。それだけが唯一大学教員の特権みたいなものである。それで勤務時間の定まっているサラリーマンと比較して勤務時間はどんなのかと過去歴を見たら、講義や会議の他に、本や依頼原稿の執筆、講演原稿の作成、都市や建築のデザインなどに明けくれて徹夜や休日出勤までしているではないか。当然サラリーマンより勤務時間数ははるかに多い。あげくのはてにフィールド調査をこなし、平均するとある月は16時間勤務が毎日続いた計算になる。
毎日長い時間勤務ができるのか、要は時間の使い方なのである。頭の動かない時に原稿など書いても時間の無駄。私などは昼を食べたら午後は夕方まで全く頭が回らない。そんな時に仕事なんかしたって能率が悪いので気分転換に講義とかドライブだ。あるいは休日出勤を繰り返し代休日をまとめてダイビングに出かけたりといったこともあった。それでも代休日を消化できなかったので、事務に出勤簿に休日の印を上から貼り付けてもらって整合させたことある。つまり勤務時間を大いに超える働きすぎであった。勤務時間どおりに働く(それが多くても少なくても)のは大学の仕事では不可能よ。
私のアイデンティティやクリエイションに関わることが本来の仕事であって、それ以外の・・・例えばルーチンワークの大学の座学の講義は、私がプログラミングさえしておけば、あとはビデオやロボット、ついでに採点や成績までつけてくれれば申し分ない。それができないのがデザイン実習の授業であり、ここはクリエイションを扱うのでマンツーマン教育の典型であり、これからも変わることはない。卒業制作の時は、毎日が実習だったといってよい。
ワーケーションをとやかくいうと、働きすぎの実態ばかり出てくる。だから働く時間ではなく、働く内容や質が大切なのだろう。勤務時間なんて戦後の工場労働者の勤務時代の概念だ。それを今のワーカーに適用したって意味がない。新しい概念をつくるとか少しは考えなさいよ、それって文化系の仕事でしょうがぁ〜・・・。
福島県裏磐梯
iPhone7s
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