Creator's Blog,record of the Designer's thinking

フィールドワークの映像、ドローイングとマーケティング手法を用いた小説、エッセイで、撮り、描き、書いてます。

番外編380. 浦添グスクの想像復元

2018年11月19日 | Design&3DCG

図1.浦添グスク全体俯瞰の想像復元

 

 沖縄県、愛知県を回って帰ってきた。京都はお火焚祭の季節である。朝からこのための準備に走り回っていた。さて沖縄へ出かけるといってもダイビングだけをしているわけではない。もう一つのなかなか進まない目的がある。それは沖縄県に62箇所はあるとされているグスク(城)の一部を3DCGによって想像復元しようという試みだ。すでに浦添グスクについては、大学の紀要(注)でその研究成果を発表してきた。これを少し紹介しよう。

 浦添グスクは、首里王朝が始まる前の王府、中山浦添王府の1184年〜1406年頃の話だ。首里王府とも関係性があり、第二次世界大戦で破壊された城壁の一部が現在復元されている。その城壁内に建つ浦添グスクは、建築学的にみてどのようなものであったかについてを、3DCGを用いて想像復元してものである。

 その復元の姿が沖縄の歴史家達には唐突だったかもしれない。しかし建築学的に見れば1184年というのは、奈良東大寺が創建された頃であり、この頃から過去をさかのぼれば、奈良時代の法隆寺などの伽藍配置の空間にたどりつく。つまり当時既に高度な技術が確立されていたし、諸国と交易をしていた沖縄が、そうした知識をもち、職人達を抱えることは容易だったはずである。

 そして浦添グスクの城壁は、空間的に見れば、あまりにも意図的なつくられかたをしていると私は判断した。それは掘っ立て小屋を何棟が並べた程度のグスクではなかったのかとする歴史家達の意見を踏み越えており、相当に示唆的な空間である。やはり首里城同様に伽藍配置が取られていたと私は考えた。というのも、ある日突然首里城の伽藍配置が登場してきたわけではなく、やはり幾つかの沖縄の風土の中での伽藍配置の試みがあり、最後の完成形としての首里城だったのだろう。

 だから浦添グスクも伽藍配置だったという考え方にたつことにした。そうして考えたのが浦添グスクの3DCGによる想像復元である。こうして復元した空間にすると、遙拝所に通じる城門や敷地の高低差に空間的な整合性がみられるのである。詳しくは拙者の論文を参考にされたい。

 尚地形図は、既に米軍地形図があるが、第二次世界大戦で地形の形状は大きく変わっているはずであり、これを使うことはできない。そこで戦前の日本軍が作成した地形図を浦添市役所で入手し用いた。

 当時の日本建築に見られる建築技術の水準からすれば、この程度のグスクがあってもおかしくはないというのが私の考え方だ。外観は韓国のグスクを意識している。そして建築技術上の見地から屋根に鴟尾はついていたと判断できる。こうした空間ならば城壁の形態の意味も成立してくるだろう。単に地形に合わせた城壁ではない。やはりなんらかの意図を持って地形と折り合いながらつくっていったグスクだと私は推測した。

 今私達が過去から得られる情報を元に復元すれば、建築学的にみたときに、こうした伽藍配置の可能性もありではないですか?、とする仮説の一つが成立してくるのである。

  

図2.正殿回りの空間

中庭を配した伽藍配置による正殿。正殿は今帰仁グスクの礎石が残されているので、そこから採寸し建物の大きさを決めた。左は王府の行政機能であり、建物の1スパンを回廊的な空間として動線を確保している。右は王の住まいへゆくための回廊。 

 

図3.王の居室ゾーンの空間

王の居室ゾーン、すでに何人もの妻がいたという説もあるので、複数の正妻や女官達の建築群で居室ゾーンが形成される。

 

図4.想像復元配置図

3DCGを制作する前に作成した配置図。首里城の伽藍配置から引き算をするように導入施設の機能を決めていった。このような配置にするとティークガマと呼ぶ遙拝所に通じる城門にも意味が出てくる。さらにし政務空間や象徴空間としての正殿と、プライベート空間である王の居室空間も敷地の高低差でわけられていたとすることが明快になる。地形を旨く利用したグスクではなかっただろうか。

 

(注),三上訓顯:建築史上の二つの経験,p3-18,芸術工学への誘い,vol21,2016.

CG制作:磯谷実祐

 

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