Creator's Blog,record of the Designer's thinking

フィールドワークの映像、ドローイングとマーケティング手法を用いた小説、エッセイで、撮り、描き、書いてます。

京都暮らし16. 食の京都

2009年03月10日 | Kyoto city
 京都暮らしで何がよいか・・・ということを考えた。京都は、食・衣・住の世界である。なによりも食がいい。食べ歩いても、近所のスーパーで食材を買い集めても、やはり食の京都である。
 それに京都は、名古屋や東京に比べれば空気が綺麗だ。一日出歩いていても、顔を洗わなければならないほど東京や名古屋の空気はよごれているが、山が迫った盆地の京都ではそんなことは少ない。多分空気が浄化されてしまう機能が残っているからだろう。風呂には、三日に一度でいいかと思うときもある。そんな感覚になるのは、昔の東京の生活感覚なのだが、それが普通に今も生きているのが京都である。空気が旨ければ、食も旨い。自明の利である。
 食はなんといっても、私の家から歩いて行けるところにある錦市場がありがたい。東京ならば、築地の場外市場の近く(つまり銀座界隈ですが・・・)のホテルに住むようなものだ。錦市場で焼き魚と軽い総菜を調達すると、夕飯のおかずは揃ってしまう。あとはご飯と味噌汁をつくるだけだ。
 それに私の家の周りには、普通に旨い食べ物屋さんが多い。つくるのが面倒なときは、食べにゆけばよい。そんな生活をしていたら、少し太った。
 なんといっても、京都は、街の大きさが調度よい。例えば新幹線を降りて、バスに乗り換えるのに、歩いて10分はかかる名古屋や東京に比べ、京都は地下鉄の真上が新幹線だったりする。歩いて切符を買っても5分とかからない。そんなコンパクトシティ故の暮らしやすさがあるところが、京都なのであろう。京都の町は、横断しても歩ける距離である。タクシーを利用しても千円台である。狭いところに効率よく、収まってきた1300年の歴史を持つ古都ならではの暮らし方の知恵があるのかもしれない。
 そして何よりも大切なことは、狭いところに様々な要素が数多くあって街が面白いということだ。ここが都市を勉強してきた人間にとっては、一番重要なところなのだ。

2009年、八坂神社・節分祭
CanonEOS40D、EF100-400mm/F3.5-5.6
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都暮らし15. 節分徘徊・吉田神社

2009年03月09日 | Kyoto city
 2月3日の夜は、吉田神社が盛大である。吉田山の山頂まで続く夜店の界隈の雰囲気は、旧正月の賑わいを感じさせてくれるし、この晩に行われる「お火焚祭」は、寒いときに暖まれる火の持つ心地よさがある。
 お火焚祭は、夜を徹して続くが、時計が夜中の12時を大幅に回っている頃に私は引き上げる。途中の道すがらの露天も店じまいをはじめている。 吉田神社の節分をもって、市内の旧正月の行事はすべて終わる。
 節分が終わると、暦の上では立春である。実際今年は、暖冬だった故か、節分を過ぎると市内の気温が高くなり始めてきた。市内も雪が積もることなく、東京よりも暖かい日が続いている。雪が積もらないと少し物足りない感じもあるが、3月に入ると、冬の季節に飽きてくる。早く桜が咲かないかと待ち遠しい気分になるのが3月である。今年は桜の開花も、例年よりは早まりそうである。多分3月下旬の卒業式の頃には、桜が開花するかもしれない。
 昨日は、近隣町内会が寄り集まってボーリング大会があった。運動不足の身には少し腕が痛い。そんなことをしながら、光は、もう春の明るい光に変わっている。


2009年、吉田神社
FinepixS5pro,AF-SNikkor16-85mm/f3.5-5.6
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都暮らし14. 節分徘徊・壬生寺

2009年03月08日 | Kyoto city
 節分の催事は、特に3日の2時から3時に重なっている。従って廬山寺を拝観したら、次は壬生狂言しか選択肢がない。壬生狂言は昨年のブログで紹介したので、省略する。最近この狂言は、撮影できないので、今年は壬寺道界隈の雰囲気を味わいにでかけた。
 壬生寺道は、冬の夕方の風景が、どんな気候でも絵になるところである。今年は雨で、それはそれで結構面白い。多分周囲の町屋が古いこともあるのだろう。四条通から壬生寺道に入ると、程なく嵐電の踏切がある。町屋や屋台と相まって踏切の風景が、よく似合う場所である。この踏切を渡り、壬生寺に向かうのである。壬生寺道に立ち並ぶ屋台は、境内の中まで続いている。古い町屋と屋台と夕方の風景は、雨も加わり、この界隈の街の風情を感じさせてくれ、そぞろ歩くには良いだろう。
 ところで京都の入り口に置かれた四つの守り神、それが北野天神、吉田神社、八坂神社、そして壬生寺なのである。という高札が壬生寺にかけてあった。
 こうした高札をみていると神道や仏教は、4という数字やその倍数が好きである。仏教の八正道、十二因縁といった具合に。特に神道の場合、方位という空間概念が強いと思われる。
 そう考えたときに、建築設計をすると必ず方位を入れるばかりか、デザインの拠り所とする場合もある。都市に至ってはさらに重要な要素だ。デザインも空間概念に依存する要素が大きい。
 また住まいのデザインで西洋人は、西向きを好むが、日本人は南にこだわる。西洋では神様とそれ以外は天と地を志向するが、日本人は東西南北からやってくる邪気を払うしきたりもある。
 このようなことをつらつら考えてゆくと、空間概念というのは、いにしえの時代から続く面白い世界だと思ったりする。

2009年、壬生寺道
FinepixS5pro,AF-SNikkor16-85mm/f3.5-5.6
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都暮らし13. 節分徘徊・廬山寺

2009年03月07日 | Kyoto city
 廬山寺の鬼法楽には、隔年位で出向いている。このブログでも一度取り上げた。人手が多く、やはりここがユーモラスで面白いからだろう。次第にここの節分も有名になりつつある。
 今年の節分はかなりの雨が降り、脚立(立てる位置には気遣いが必要・私はいつも大きな生け垣の前に立てる、後ろに人がいないからだ)に上がって撮影をするには、多くの傘が邪魔だとおもっていたら、祭が始まるときに一斉に傘をたたんだのは、さすがに地元の人達であり、慣れている。
 祭りを見るときに傘は本当に邪魔なんだ。とにかく後ろの人からは全く祭りが見えなくなる。そういうことを傘をさしている当人達はまったく気がつかない。得てして遠来からの観光客にそのような輩が多い。祭りの時はフード付きのコートが一番良いのだ。
 そう思いながら、私のフード付きのコートは、傘をささずにいられるので大正解だった。カメラは雨でずぶ濡れになったが、生活防水のおかげで難なく撮影できた。最近の撮影機材の進化で、貢献しているのはやはり生活防水機能の進化が大きい。 デジタルだから水は大敵なのだが、ボディやレンズがずぶ濡れになっても機能するので、これは大いに助かっている。
 雨の中でずぶ濡れになったので、身支度を整えるために立ち寄った出町付近にある珈琲屋は、暖かかくてホッとした。

2009年、京都市寺町通
FinepixS5pro,AFNikkor50mm/f1.4D
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都暮らし12. 節分徘徊・平安神宮

2009年03月06日 | Kyoto city
 今年も2月3日の節分に、市内の催事の徘徊をした。今年は平安神宮から始めた。そのなかの一つが「大儀之儀」である。これは、平安朝の頃の追儀(ついな)の行事を、昭和に入ってから時代考証を踏まえて復元したものである。写真は、黄金4つ目の面をつけた大舎人(おおとねり:大男)だそうである。
 平安神宮自体は、東京への遷都と幕末の混乱で疲弊した京都の復興の町おこし事業が結実して、 明治28年に創建されたものであることが、神社の由緒でわかり、京都の社寺では著しく新しい。現在では、遅咲きの桜の都市名所であるとともに、多くの参拝客を集める大変著名な神社である。
 現在でも全国で町おこし事業が行われているが、神社の復興というのは、自治体などの助成制度では不可能なので、前例は少ないだろう。 実際に行われている町おこし事業のように、商店街などによる安物の集客イベントなどを行ったところで、すぐに飽きられるのは目に見えている。
 だから地域の核である中心となるシンボルをつくりだし、催事の復元によってリピータを増やし、遅咲きの桜といった他との差別化を計るといった平安神宮における事業方法は、優れた町おこしだといえる。実際にこの事業によって京都は復興を遂げ、現在毎年5000万人の近くの来訪者をみている。
 そんな見方をすれば、平安神宮の一連の事業は、歴史的に優れた町おこし事業モデルだとする、解釈も生まれるだろう。町おこしのポイント、それは地域の核となる精神的なシンボルを、歴史性を踏まえて復元しながら、他地域と差別化する施策を盛り込みながら、定着させてゆくことにあるといえよう。

2009年平安神宮・節分祭
canonEOS40D,EF100-400mm/f3.5-5.6
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都暮らし11. 流れ者達

2009年03月05日 | Kyoto city
 私が、名古屋に来たとき、静岡県出身の俳人が誘ってくれた浄心のお店に「トップレディ」があった。そこはフィリピーナがいるパブである。フィリピーナ達は綺麗なのだが、みんな子持ちで、出稼ぎで日本に来ているのであった。私は、髪の長いマリちゃんがお気に入りで、しばしば通ったことがあった。気さくなオカマのマスターがいて、どこか居心地の良いところでもあった。
 その後日本の法律が変わり、結婚していなければ、日本の国籍がとれなくなってしまった。だからフィリピーナ達は、母国へ帰ってしまった。従ってトップレディも店を閉じたのである。
今でも日本にいるフィリピーナ達は、日本人と偽装結婚して、出稼ぎをしているのである。
 トップレディに、しばしばコメディアン東八郎の元お弟子さんがきていた。どこかのお店で料理を作っているようだった。その後彼は、「あずま」というお店を構えたので、私はときどきお邪魔した。私の体調が悪いときは、胃に優しい料理をつくってくれた。これを食べながら次第に胃が回復するので、お酒が飲めた。彼は元芸人だから会話が旨く、ここも居心地のよいお店であった。また彼は、ときどき鶴舞でホームレス達に食事を提供するボランティアを個人的に行っていた。 その後道路交通法が改正され、お店の客足が極端に減った。そこでお店を閉じたのである。マスターも、ホームレスになったのだろうか。
 法律が変わると、こうした居心地のよいパブがなくなって行くことを痛感した。どこからかやって来て、名古屋に店を構え、そして消えてゆく。流れ者という言葉が相応しい、心優しい人達であった。京都でそんな、人たちのことを思い出していた。

2009年:清水寺
FUJI FinepixS5pro,AF-S Nikkor16-85mm/f3.5-5.6GED
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都暮らし10. コミュニケーション

2009年03月04日 | Kyoto city
 京都人は、話好きである。街角で、私が持っていたライカを肴に、見知らぬ叔父さんと一時間も立ち話をした事がある。またカフェで私がデジタル一眼レフの掃除をしていたときは、隣の席の叔父さんが「もうじき定年で何か趣味をと考えているんですが・・・・」といった具合に、見知らぬ人に声をかけられ、暫く余暇談義が続いた。
 こうした気質は、大阪人もそうであり、関西人に多いコミュニケーションが好きな気質である。概して関西人とは、どこか根が明るく楽しい時間がすごせる。
 東京人は、よく一緒に飯を食べにゆきたがる。飯をつつきながら、本音をききたがるようだ。基本的にコミュニケーションが嫌いではないようだ。私も大学の先生からも、よく昼飯に誘われたことがある。これもネアカなのだろう。
 これに対して名古屋人の気質は、明らかにネクラである。もとから外に冷たく内に暖かいという内弁慶だから、先ず見ず知らずの他人に声をかけることはない。名古屋人は、先天的にコミュニケーションが下手な人種が多い。
 私が、名古屋のいきつけのハブで飲んでいたら、珍しくつまったように話しかけてくる叔父さんがいる。あきらかにべんちゃらの類で、聞いていてもつまらない。それに言葉にトゲがあり、耳障りがものすごく悪く、また後味も悪い。つまり内弁慶だから話し下手なのである。
 また私が、オカマのマスターとフィリピーナがいる浄心のパブで飲んでいたとき、目前に、夫婦でお酒を飲んでカラオケを歌ったいたのには驚いた。もともと夫婦でくるようなお店ではないのに、名古屋人は内弁慶だからオカンとしかコミュニケーションできないのだろう。そんなことを考えながら、フィリピーナと遊んでいたら、オカンがキッとこちらを睨んでいた。
私は、「オカンのくるとこじゃねーよ!」という視線で睨み返したが・・・。
 そんなパブも数年前に店をたたみ、その後オカマのマスターも他界してしまった。だから、名古屋の私の夜はものすごく退屈になったのである。
 そんな時、運良く夕べは、名古屋に住む俳人(静岡県人)から電話があったので、浄心の赤提灯で飲んでいた。たしかフィリピーナのコンパニオンをはべらせて、フィリピン・リゾートでプチ同窓会をしようという話題で大いに盛り上がった。そのうち、突然俳人が「行くぞー!!」と大声をはりあげて席をたち店から出て行った。「えっ!!、これからフィリピンかい!??」・・・酩酊。

2009年、京都イノダコーヒー店
CanonEOSkissDigital,EF60mm/f2.8
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都暮らし9. 名古屋流

2009年03月03日 | Nagoya city
 京都から名古屋に通勤していると、名古屋流という街の流儀があると思う。どんな流儀かと言えば、それは「キッチュ」だ。
 名古屋のキッチュな錦三丁目(キンサン)に来ると、私は新鮮な刺激を感じる。けばけばしくゴージャスな、このキャバレーの風景こそ、私は名古屋流の一つだと思う。最近こうしたキッチュな風景が面白いと感じているし、名古屋の個性の一つだ思っている。私は、そんな風景を名古屋流と呼んでいる。
 名古屋のお店が、東京のこじゃれた料理や、京都の京料理を出したってつまらんでしょう。例えば名古屋には、ひつまぶしがあり、スパゲッティの下には薄い卵焼きが敷いてあるというのが、名古屋流でしょう。名古屋には、名古屋のレシピがある。そこが名古屋流だと思う。
 だから名古屋のテーマカラーは、何色かと問われれば、私はためらいなく「ゴールド」と答えるだろう。尾張出身の織田信長の安土城天守閣の金粉を施した復元模型や、豊臣秀吉の金色の茶室、徳川家のテイストにしたがって昨年放映された「篤姫」をみれば、やはり「ゴールド」がよく似合う。
 キッチュでゴージャスなゴールド・エンターテイメント、それが名古屋流だとすれば、古都から通ってくる私としては、面白いテイストができあがると思うけど・・・。

2009年、錦3丁目界隈
CanonEOSkissDigital,EF16-35mm/f2.8
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都暮らし8. 名古屋への通勤

2009年03月02日 | Kyoto city
横浜から大学がある名古屋にこれまで12年通った。私自身東京で生まれ筑波大卒だから、研究仲間をはじめとする多彩なコミュニティは、首都圏にある。
 名古屋人から、名古屋に住めと執拗に言われたが、研究コミュニティを放棄してしまえば、研究者としての存在が危うくなる。第一名古屋にプロデュースを教える研究者は、皆無だ。首都圏だからこそ、成立している先端研究領域である。そういうところがわからないというのが、名古屋人のドンくさいところである。
 そうは言っても片道3時間の通勤はさすがに疲れるし、交通費の負担は大きい。私の場合、交通費は自己負担だから、多い月で20万の交通費を払ったこともある。さすがに馬鹿らしくなった。といって私自身コミュニティがない名古屋に住む道理も意欲もない。
 そんなことを考えていたら、京都に住む私の古い友人の大学人から、リニューアル町屋の情報をいただいた。そこですんなり京都に入り込めたわけである。そして京都から、名古屋に通うことにした。私の京都の家から名古屋駅までは、京都市営地下鉄を含め所要時間は、新幹線利用で約45分弱と至極近くなった。それは大変楽だ。ただしその後名古屋の基幹バスに乗り換えてで30分というのは頭が痛いが・・・。それに交通手段が、新幹線、東海道線、近鉄特急、そして名神高速バスと多様になった。急がないときは1本で行ける名神高速バスの回数券が安くて便利だ。ときおりこれで名古屋に通っている。
 私は、特に趣味もなく地味に暮らしているが、棲むべき都市を選ぶという唯一の贅沢をしていると自分では、そう思っている。横浜もそうであったわけだし、京都も都市を勉強してきた人間として、選択した。
 自分が棲むべき都市、或いは棲みたい都市を選ぶ、というのも結構な趣味だと自分では思っている。それは都市道楽だといえよう。なかなか普通の生活をしている人ではできない道楽だろう。都市を勉強してきたばかりに、とんだ道楽が身についてしまった。今京都暮らしを楽しんでいる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都暮らし7. センチメンタルな春!

2009年03月01日 | Kyoto city
 昨日は、日帰りで大学に出向き、昼に栄で大学時代の同窓生と会食し、その後同僚の先生の最終講義にでかけた。そこには卒業したOBやOG達の中には懐かしい顔ぶれもあった。
 それにしても、春という季節は少しセンチメンタルな気分にさせてくれる。同窓生の話を聞くと、某大手メーカーのデザイン部長という要職にあり、第一線のデザイナーを退き、デザイン管理という仕事をしているという話を聞くと、我々ももうそんな歳になったかという思いがある。 あっというまの30年だ。不思議なことに、同窓生に出会っても昔の面影を引きずっている。     
 そして我が大学の一期生も三十路となり、こちらもあっという間の13年だ。食堂の厨房で、かっての芸術工学部の事務職員と雑談していた。彼曰く「過ぎ去った7年は短いですけど、これからの7年は長いですよ」。7年というのは、私が今の大学にいた場合に、退職するまでの年数なのだが、 含蓄のある言葉だ。7年という時間を数えると、ドクターまで私が担当できるのが、今度の学部3年生迄であり、それより下の学年は担当できないという、つまんないことを考えてしまう。
 そんないろんな事を、まとめて考えさせてくれるのが、やはりセンチメンタルな春なのであろう。二十歳の若者のように、前を向いて歩き、あまり後ろを振り返らない。そんなライフスタイルでありたいと私は思う。

2009年三十三間堂、通し矢
CanonEOS40D,EF100-400mm/f3.5-5.6
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする