思い出すこと3

大学に入るや、自分は不眠症になった。、世の中は60年安保で騒がしい.樺 美智子さんも6月15日、デモの中でなくなった。私は、はじめは寮生活だったので、先輩に誘われ1~2度デモに参加したが自治会から陰口を言われるほど卒業するまで典型的なノンポリ・ノンセクトだった。臆病なせいか組織に入るのを、非常に嫌った。それでも、不眠症から抜け出すためにありとあらゆる事をした学生時代だった。
彼女に誘われ教会で受洗し、日曜学校の先生もやった。一方、仏教に興味を持ち、お寺で参禅した。下宿屋さんを5時前に起き、1時間ばかり座禅をし、下宿に帰って朝飯を食べ、教会に行き日曜学校と、日曜礼拝をした。それが終わり次第近くに店でラーメンをかけこみ、パチンコ屋さんへ行き(お金と相談だが)よく,閉店の蛍の光を聞いて帰ったものだ。そうこうするうち、禅の興味が膨れ上がり、日曜学校でも御釈迦さんの話をするようになった。そのうち、さすが変な感じがしてきたので、日曜学校も教会も行かなくなった。卒業論文は「禅の心理学的分析」だった。そっちのほうは熱が入り,同じような研究をしていた京大の佐藤幸治先生を訪ねて行ったこともあった。
結局はこれがライフワーク的なテーマになってしまった。
学生時代はほかに、ブラスバンドや剣道をやり、学生の聖書研究会や心理学研究会を友達と立ち上げた。駅の弁当売り、家庭教師・小岩井農場・新聞社・さらに留年した大学5年目は高校で社会科社会の講師もやった. 恥知らずの軟派もした。まさに難破船のように、滅茶苦茶をやった。教員になってからは、仕事や近所の関係もあって自民党や創価学会や共産党は勿論、極左といわれる人から物を頼まれたり、街宣車で走り回ったりする人や右翼の指導者とも仲良しになり、家の行き来をし、、飲み屋さんにも足を運んだ。どの人も私にはない尊敬できる心根持っていた。こんなことを自分の弟に話すと、笑をこらえられない様子で聞いているが自分にとっては、精神をぶっ壊さないで生きていくぎりぎりの選択だったから解ってもらえなくても仕方ない。たしかに溺れる者は藁をも掴むで、やってることは、他人から見るととんでもなく見えたでしょう。しかし、今自分は《これで》よかったのだと思っている。人は組織や立場では解らない固有の感性や価値観を持っている。感情でなく解ろうとすれば、夫婦や親子でも不可能に近い距離があるのだと思う。だから意味があるとも言える。


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