世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
ひと(他人)を守るか自分を守るか
人はぎりぎりの選択を迫られた時、他人を守るだろうか自分を守るだろうか。
「自分を守れない人間が、他人を守れるはずがない。」この言葉に説得力を感じる。献身とか自己犠牲という言葉もあるが、より大きな名誉なりなんなりとの引き換えではないだろうか。いろいろな場合があるから、一言では言えないだろう。
今日、教育が問題にされいろいろなところで語られ、行政的にも施策が講じられている。
国が教師の免許証を10年ごとに審査しなおすような計画を持っていることが昨日の新聞で報じられていた。
教師の指導力や資質向上のためだと言う。果たして結果は期待通りか正反対か
?。身近に引き寄せて考えてみたい。
現行法では、公務を司る公務員は一定の身分保障がなされている。それは民間企業も同様の保護規定がある。その保証がないと職務や仕事に打ち込めないからだ。消防士にしろ一線の警察官も同様だ。
人は仕事で生計を立て、家族を養い生活している。仕事を失すると家族もろとも食いぱぐれる。これはどんな職業もも同じだ。
私が言いたいのは、上記の施策で教師は職責である(子供を守る立場)に立つか、反対に(自分を守る立場)に立つか。これは教師個人の道義的な問題と言うより人間の性質や生活上の選択になるのではないか。それでも子供を守ると言える教師がいるだろうか。またそれを守れと誰が要求できるだろうか と思う。
あえてここで強調したいのは、これは先の仮定の問題ではなく、現在の現実の状況を見れば、結果は、はっきりしているいる と言うことだ。
今ですら、ほとんどの教師は自分個人の守りに入っている。物言わぬ教師になってしまっている。それを私は定年後も現場でつぶさに見てきた。本当のことは内でも外でもいわなくなっている。
教育上の実際の具体的な問題や情報は、保護者も行政に携わる人も、すでに知らされない状況になっている(一般的には気がつかないだけ)例えば、ほとんど社会現象として広く知られてる不登校、発達障害、学級崩壊、子供の崩れ等のの大きな課題も上司をはじめ、教育関係者やマスメディアからも納得できるような(原因)の説明を聞いたことがない。しかし現場ではそれなりの因果関係を考えていないと子供に対応できないので、それなりの教師は、それなりに背景や原因を分析して取り組んでいる。そのことを現場の教師が自ら発言しなかったり、上司が(行政や学校管理の責任を問われるので)外へ出ないよう、握りつぶしているのが現実だと思う。私は40年以上の教師生活でただの1度も原因を尋ねられたことがない。家族や親しい友達とインサイダー的に話すだけ。
行政も、教育問題を何とかしようと一生懸命考えてのことだろうし効果が0とまでは言わないが失うものが多すぎる。
上記の免許再審の方向違いの施策は教育上の子どもから発せられる、言葉や行動の信号の大切さを理解せず、無視しているところから出てくる発想だと思う。教育が大人の権威や社会関係でなされるのは歴史上は過去のものだし、教育原理に反するでしょう。対象の子どもがあって初めて教育という営みが始まることが分っていない。誤解しないでほしいのは、教師の質を問うなといっているのではない。私自身多くの失敗をしてきたし同僚にも人格的な資質や指導力に疑問を感じることも少なからずあった。本当に教師を子供を守り育てる仕事をさせたいなら守り育てる対象の子供や、最も子供のことを心配してる保護者に評価させることだ。教育の前提は指導者と指導される者との信頼関係にあるからだ。それは子供や、最も身近にそれを察知できる保護者ではないか。管理職が管理や評価を強めると生活のかかっている教師は必然的にそちらに顔を向け子供から目がそれる。管理職の受けと子供の信頼が一致しないことは誰でも経験済みのことではないか。勿論評価は簡単ではないが教育の関係を間違えなければ、技術的には方法はいくらでもある。今国が準備している内容は語弊はあるが一昔前の中小企業の人事管理や経営哲学ではないか。これで間に合わないことはかなり広く明らかになってきている。考えていることが正反対だ。教育界では使えなくなった古着を教育改革というのだからしょうがない。
石原都知事は「文科省は最も馬鹿な役所」と言っていたが,統計上は東京もそんな大きな口はきけないはず。現実抜きの何でもありがおおはやり。姉歯もアイフルも学校も。管理監督は誰がしているのか?
今日の学校現場は、上記のような〈物言わぬ教師)の域をはるかに超え、(物言えぬ教師)が大多数になっている。特に難しいと言われる採用試験をパスしてきた若い教師にその傾向が著しい。20歳代の途中退職者の多さに端的に現れています。採用を決める人たちの資質が問われているのは当然ですが、もっと心配なのは、団塊ジュニアの問題あるいは、壊された教育環境の中で育ってきた人たちが現場に教師として登場する時代になっているのです。われわれから言うと、羨ましいぐらいの若さや運動や、パソコンをはじめ技能的に優れている若い教師は多いし、まねできないような感性を兼ね備えた人もいます.「今の若い人は」といっぱ一からげにはいえませんが、
あくまでも傾向としてですが、人間関係や社会性という教師として何よりも大切な感覚がどうか?と疑問になる人たちが確実に増えているのです。社会的に言えば負の循環増殖が進んでいるようにさえ見えます。偉そうに言わせてもらうと物言えぬ教師をこえもの知らぬ(人として知らなければならない大切なことの意味)教師が増えているのです。それはおそらく、一般企業でも同様の傾向があると思います。
ちょとすると既に日本の労働力の質が問われ始めているのかもしれません。
とにかく社会全体が浮ついている今日、全ての分野で早急に基礎基本・原理原則にたちかえる必要があるだろうと考えている。
「自分を守れない人間が、他人を守れるはずがない。」この言葉に説得力を感じる。献身とか自己犠牲という言葉もあるが、より大きな名誉なりなんなりとの引き換えではないだろうか。いろいろな場合があるから、一言では言えないだろう。
今日、教育が問題にされいろいろなところで語られ、行政的にも施策が講じられている。
国が教師の免許証を10年ごとに審査しなおすような計画を持っていることが昨日の新聞で報じられていた。
教師の指導力や資質向上のためだと言う。果たして結果は期待通りか正反対か
?。身近に引き寄せて考えてみたい。
現行法では、公務を司る公務員は一定の身分保障がなされている。それは民間企業も同様の保護規定がある。その保証がないと職務や仕事に打ち込めないからだ。消防士にしろ一線の警察官も同様だ。
人は仕事で生計を立て、家族を養い生活している。仕事を失すると家族もろとも食いぱぐれる。これはどんな職業もも同じだ。
私が言いたいのは、上記の施策で教師は職責である(子供を守る立場)に立つか、反対に(自分を守る立場)に立つか。これは教師個人の道義的な問題と言うより人間の性質や生活上の選択になるのではないか。それでも子供を守ると言える教師がいるだろうか。またそれを守れと誰が要求できるだろうか と思う。
あえてここで強調したいのは、これは先の仮定の問題ではなく、現在の現実の状況を見れば、結果は、はっきりしているいる と言うことだ。
今ですら、ほとんどの教師は自分個人の守りに入っている。物言わぬ教師になってしまっている。それを私は定年後も現場でつぶさに見てきた。本当のことは内でも外でもいわなくなっている。
教育上の実際の具体的な問題や情報は、保護者も行政に携わる人も、すでに知らされない状況になっている(一般的には気がつかないだけ)例えば、ほとんど社会現象として広く知られてる不登校、発達障害、学級崩壊、子供の崩れ等のの大きな課題も上司をはじめ、教育関係者やマスメディアからも納得できるような(原因)の説明を聞いたことがない。しかし現場ではそれなりの因果関係を考えていないと子供に対応できないので、それなりの教師は、それなりに背景や原因を分析して取り組んでいる。そのことを現場の教師が自ら発言しなかったり、上司が(行政や学校管理の責任を問われるので)外へ出ないよう、握りつぶしているのが現実だと思う。私は40年以上の教師生活でただの1度も原因を尋ねられたことがない。家族や親しい友達とインサイダー的に話すだけ。
行政も、教育問題を何とかしようと一生懸命考えてのことだろうし効果が0とまでは言わないが失うものが多すぎる。
上記の免許再審の方向違いの施策は教育上の子どもから発せられる、言葉や行動の信号の大切さを理解せず、無視しているところから出てくる発想だと思う。教育が大人の権威や社会関係でなされるのは歴史上は過去のものだし、教育原理に反するでしょう。対象の子どもがあって初めて教育という営みが始まることが分っていない。誤解しないでほしいのは、教師の質を問うなといっているのではない。私自身多くの失敗をしてきたし同僚にも人格的な資質や指導力に疑問を感じることも少なからずあった。本当に教師を子供を守り育てる仕事をさせたいなら守り育てる対象の子供や、最も子供のことを心配してる保護者に評価させることだ。教育の前提は指導者と指導される者との信頼関係にあるからだ。それは子供や、最も身近にそれを察知できる保護者ではないか。管理職が管理や評価を強めると生活のかかっている教師は必然的にそちらに顔を向け子供から目がそれる。管理職の受けと子供の信頼が一致しないことは誰でも経験済みのことではないか。勿論評価は簡単ではないが教育の関係を間違えなければ、技術的には方法はいくらでもある。今国が準備している内容は語弊はあるが一昔前の中小企業の人事管理や経営哲学ではないか。これで間に合わないことはかなり広く明らかになってきている。考えていることが正反対だ。教育界では使えなくなった古着を教育改革というのだからしょうがない。
石原都知事は「文科省は最も馬鹿な役所」と言っていたが,統計上は東京もそんな大きな口はきけないはず。現実抜きの何でもありがおおはやり。姉歯もアイフルも学校も。管理監督は誰がしているのか?
今日の学校現場は、上記のような〈物言わぬ教師)の域をはるかに超え、(物言えぬ教師)が大多数になっている。特に難しいと言われる採用試験をパスしてきた若い教師にその傾向が著しい。20歳代の途中退職者の多さに端的に現れています。採用を決める人たちの資質が問われているのは当然ですが、もっと心配なのは、団塊ジュニアの問題あるいは、壊された教育環境の中で育ってきた人たちが現場に教師として登場する時代になっているのです。われわれから言うと、羨ましいぐらいの若さや運動や、パソコンをはじめ技能的に優れている若い教師は多いし、まねできないような感性を兼ね備えた人もいます.「今の若い人は」といっぱ一からげにはいえませんが、
あくまでも傾向としてですが、人間関係や社会性という教師として何よりも大切な感覚がどうか?と疑問になる人たちが確実に増えているのです。社会的に言えば負の循環増殖が進んでいるようにさえ見えます。偉そうに言わせてもらうと物言えぬ教師をこえもの知らぬ(人として知らなければならない大切なことの意味)教師が増えているのです。それはおそらく、一般企業でも同様の傾向があると思います。
ちょとすると既に日本の労働力の質が問われ始めているのかもしれません。
とにかく社会全体が浮ついている今日、全ての分野で早急に基礎基本・原理原則にたちかえる必要があるだろうと考えている。
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