世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
政治文化
時々政治討論のテレビ番組を見る。与野党が左右に別れ、中央に司会者が座る。
時の政治課題を討論するのだが、国会のミニチュアみたいに見えることがよくある。それは討論に参加している人たち全員が話の聞く態度のよろしくないことだ。
よく聞かないで自分たちの言い分をアピールすることに終始し、時には感情の露出や不規則発言の付録がつく。
発言時間は公正に議席配分しているかのようにも見える。
政治文化という言葉があるが、政策や課題を文化的意味として捉えていれば もう少し丁寧な討論になるのではないか。文化は人の幸福のための意味や価値の追求
するということだが、価値を追求するなら、自分と考えの異なる人の話を聞くのはまずはじめの基本的なことだ。時間の制限もあるがどの政党もその態度があまり見られない。無党派で選挙も行きたくないが、必死に幸福を求めて生きている人のいることなど、頭の隅っこにでもあるのだろうか。社会的な想像力というか空間意識が感じられない。司会者も同じだ.NHKですらこうだ。
その後のサンデープロジェクト等は司会からコメンテーターにいたるまで、党派性が優先され、発言時間(情報の発信量)が一方的なのは、文化の香りどころか、政治的公平さすらどうかと思う。とてもじゃないが民主主義など口にしてほしくない。(しかしこれは番組制作や局の問題で、少しだが一般の視聴者も気がつき始め手いるのではないだろうか)昨日は田中真紀子さんが開口1番それ(メディアの問題)を指摘していた。彼女の人気の秘密を見た思いがした。
時の政治課題を討論するのだが、国会のミニチュアみたいに見えることがよくある。それは討論に参加している人たち全員が話の聞く態度のよろしくないことだ。
よく聞かないで自分たちの言い分をアピールすることに終始し、時には感情の露出や不規則発言の付録がつく。
発言時間は公正に議席配分しているかのようにも見える。
政治文化という言葉があるが、政策や課題を文化的意味として捉えていれば もう少し丁寧な討論になるのではないか。文化は人の幸福のための意味や価値の追求
するということだが、価値を追求するなら、自分と考えの異なる人の話を聞くのはまずはじめの基本的なことだ。時間の制限もあるがどの政党もその態度があまり見られない。無党派で選挙も行きたくないが、必死に幸福を求めて生きている人のいることなど、頭の隅っこにでもあるのだろうか。社会的な想像力というか空間意識が感じられない。司会者も同じだ.NHKですらこうだ。
その後のサンデープロジェクト等は司会からコメンテーターにいたるまで、党派性が優先され、発言時間(情報の発信量)が一方的なのは、文化の香りどころか、政治的公平さすらどうかと思う。とてもじゃないが民主主義など口にしてほしくない。(しかしこれは番組制作や局の問題で、少しだが一般の視聴者も気がつき始め手いるのではないだろうか)昨日は田中真紀子さんが開口1番それ(メディアの問題)を指摘していた。彼女の人気の秘密を見た思いがした。
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老人の役割
子供と老人は似ているところがある。共に自然と関わることを好む。
人間のはじめと終わりの方が、自然と深くかかわり、(一般的傾向としてだが)途中はご無沙汰しがちになる。両者、止むを得ない所もある。
この春、一切仕事をやめ、家に入った。(これが私の実感です)
家に友達を呼び、近所の人と世間話をし、地域のアンテナ組合の世話役も妻と一緒にやっている。「父帰る」ではないが、何十年ぶりに、身も心も地域に戻り家に帰った。
実に心地がいい。
このことは長い間、忘れていたのか、諦めていたのか、仕方なかったのかわからないがどこかおかしい。ずうと自分と家族の幸せを求めてきったはずなのに実際はそうではなかった。
この経験や思いは自分だけでなく多くの方が経験しているのではないだろうか。
赤ちゃんや子供は、自分の内外の自然の大切さを主張する言葉も場も与えられない。リタイヤしたわれわれ老人は、実際の生活の上でも経験の上でもそのことを言葉にすることができる。
反省を含め、そのことを言葉にするのは老人の年代的・社会的役割では な い だろ う か と 自分に訊ねている。
人間のはじめと終わりの方が、自然と深くかかわり、(一般的傾向としてだが)途中はご無沙汰しがちになる。両者、止むを得ない所もある。
この春、一切仕事をやめ、家に入った。(これが私の実感です)
家に友達を呼び、近所の人と世間話をし、地域のアンテナ組合の世話役も妻と一緒にやっている。「父帰る」ではないが、何十年ぶりに、身も心も地域に戻り家に帰った。
実に心地がいい。
このことは長い間、忘れていたのか、諦めていたのか、仕方なかったのかわからないがどこかおかしい。ずうと自分と家族の幸せを求めてきったはずなのに実際はそうではなかった。
この経験や思いは自分だけでなく多くの方が経験しているのではないだろうか。
赤ちゃんや子供は、自分の内外の自然の大切さを主張する言葉も場も与えられない。リタイヤしたわれわれ老人は、実際の生活の上でも経験の上でもそのことを言葉にすることができる。
反省を含め、そのことを言葉にするのは老人の年代的・社会的役割では な い だろ う か と 自分に訊ねている。
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