話を聞くときの顔が大変

 考えの違う人の話しを聞くときの顔が大変。
 年明けて2日目の朝、布団の中で考えた。
 自分も含め意見の異なる人の話を聞いている人の顔は重要な意味を持っているのだと思った。明らかに怒りを表したり、無視して話を聞かなかったりすることが多い。こういうときのいい顔は【悲しむ顔】ではないだろうか?
 それは話の裏に事実や現実がある。意見の違いは基本的には事実や現実の認識の違いにある。自らの正当性を信じるなら意見を異にする人の認識不足から生ずる結果としての現実の悲劇が思い浮かぶはず。またそのことに気が付かない者へ、その原因を探り憐れみも出るだろう。何故なら、己の認識不足の自覚を持っているだろうから。
 逆に単なる反発は言辞や自分の立場にこだわり、結果生ずる悲劇や現実に思いは行かず、認識できないものへの理解が出来ない。認識上は似たり寄ったりの証左ではないか。

  (慈悲)と言う言葉がある。思いやりの持てる大きな心、(非)も悲しみを共にする、ぐらいに思ってきた。今朝は、(慈悲)は見解を異にした人の話を、悲しむ感覚ではないかと思った。鳥瞰図のように、彼我の全景を見渡せる目と心ではないだろうか。行き詰まっている世の中では、あちこちで喧々諤々やっている。鳥のように高くから見る人が出てくるといい。

  喧々諤々やっている場合ではない。思い切って論議する場合は、理性と節度のある、【悲しむ顔】を伴った話し合いであってほしい。私もそうありたい。
 
 フセインの死刑執行も同様に言える。是非はともかく、勝ち誇ったように喜びをあらわにしたり、怒りでこぶしをあげる人の顔が気になる。論評する人の顔も気になる。その顔が混乱の今後を暗示する。例え執行が是としても喜べることではないはず。世界の宗教家やリーダーがコメントするときの目の奥をしっかり見届けたかった。

 (慈悲)の概念や感覚は東洋だけのもので西欧にもあるのかないのかは分らないが、今朝、始めてすごい言葉なのだと思った。
 この時代だから益々光ってくるように思った。
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