世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
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大衆学
大衆小説、大衆演劇、民謡や盆踊り等は大衆から生まれた大衆の文化といえる。貴族文化・武家文化・町人文化、また児童文化等もある階層から生まれ他に広がったもののようだ。
学者によっての立場や視点の違いはあるものの、多くの学問は研究対象を一般化し全体化したものが多い。例えば教育学や心理学の対象に階層は関係しない。(実際には子どもの環境により教育内容や教育方法は異なっているにもかかわらず。)
大衆の定義は出来ないが、大雑把に言うと社会には支配的な少数の立場とそれに従って生活する多数の大衆がいる。これは独裁であろうと民主主義であろうと、資本主義であろうと社会主義であろうと同じ。しかも日本はじめどの国も、支配する人たちのグループは固定化しがちだ。支配階層と被支配階層では利害が一致するとは限らないし、実際は反対になることも珍しくない。
話は飛ぶが、テレビのワイドショウやお笑いが文化だとすると、あの文化の担い手は誰だろうと考えると分らなくなる。一見何の区別なく(皆一緒に)のようにもみえる。しかしそれは実際にはありえないのではないか。
そう考えると学問として【大衆学】と言われるような学問があってもいいなと思う。統計や資料を基に(大衆)とはどういうものか?大衆の利害、大衆の行動、大衆の心などを学問の対象にする。犯罪心理学、帝王学、皇室教育、などと同様に。
最近特に感じるのは、多くの庶民がテレビ情報丸呑みで。オーム返しかスピーカーのように語る人がやたら多い。この間も、赤提灯で飲んでいて2杯目のお酒をせがむ労務者風のおじいさんが、あたまのなかは(好景気)になっている。自分の財布を見ればいいだけなのだがそうはいかないようだ。「それはそれ、これはこれ」になっている。そのような取り違いはそのおじいさんに限らず、一般的で普通に見られる。
大衆学と言う科学があれば,上記のような取り違いは
当たり前で上記のことも科学的な現象に違いない。大衆学を少し学べば、自分に気が付きやすくなる。今は上から下まで、他人の服を着て歩いているようだ。
いたるところ、違いを強調する割には、ごちゃ煮のように形がくずれ、味の区別が難しくなっている。【テレビや街も国会も】
どれを食べてもどこか味が似ており、ほしい味は、どこにもない。