「法律の限界」と教室

昨日に引き続き、「法律の限界」を自分の教育実践の経験から述べて見たい。
長年多くの学校で通常と障害児教育に直接関わってきた。出合った全ての学校と学級で、そして自分の学級経営の経験で言えることは、学級に多くの決まりを作る先生で、いい先生はいなかったし,いいことは無かったということ。
 勿論これは私の勝手な評価になるのかもしれないが、どう見ても子どもや保護者も、同僚からも口にするかしないかは別にして、その見方はは共通しているようだった。
 私自身も経験をつんでいくにつれ、学級のルールは意識的に減らしていった。学校や教室に全くルールが必要なくはない。登校時間から、学校の生活時程、時間割など最小限は必要になる。しかし、通常、どの学校も頭を傾げたくなるようなルールがいっぱいある。(一度見てみるといい)各教室では担任がどの時間も多くの決まりが『約束』と言う名で一方的に強要される。一見見た目に、担任が細かいところまで行き届いているかに見える。問題はその結果との関係である。

 私の見・聞きした全ても、自分の経験も全て、ルールと教育効果(学習効果)は反比例だった。(今は、一つの例外も思い出せない)
 
 これは原理的には当然な事でもある。学習は主体の子どもが、どれだけ自覚的・意識的になるかが大切で、ルールにしてしまうと、先生は安心するが、子ども自身の自覚的な意識のレベルは反比例的に下がる。その分、子どもの学習しようとする力は下がり、結果として学習の成果(教師から言えば教育効果)はさがるのは、当然なこと。
 
 この関係は国と学校・教師・子ども、も同じだろう。国はどこまでルールにし、どこから任せるか。現在教育上の問題は過剰なルールにある。(本当はここで細かな説明が必要だが、長くなるのでここでは省く。ただ今日のようなメディアきゃペーンを先行させ法制化するのは教室も同じで、ルールを増やすのを正当化する一般的な方法。同様のやり方は、行政の他の分野でも多く使われている。)そして今回、そのルールを上積みしようとしている。

 直接子どもにかかわり、担任する教師から見ると、全く出来の悪い、指導力のない不適格先生のように映る。これは私だけの個人的な感想だろうか?調子に乗って言わせてもらうと、指導力のない先生が、他の先生の免許云々をする。ここでも、他の多くの場面で見られるような倒錯(価値観の逆転現象)が見られる。これは単に立場の上下・左右の問題ではない。どんな人も子供のころを思い出せばば分ること。またスポーツでも芸術でもあらゆる分野で、優れた指導者は、ルールにするところと、任せるところの区別が卓越していないかを見るといい。少なくても学ぶ立場の意欲を削ぐような指導者はいないのではないだろうか。一郎選手を育てたおおぎ監督などは自分のスタイルと異なった一郎のスタイルを『それがいい』と誉めそやしたらしい。
 人を育てるのは自分の価値観を単純に要求することではないことを、国の指導や行政に携わる人達にはわかってほしいものだ。この人たちが、教室でクラスの担任になると、子どもたちは、小学校1年生でも2~3日もしないうちに『最悪~~』と言って見破るだろう。

       大人が情けない。 

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