世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
出来ることと、出来ないこと、やるべきこと、とやってはいけないこと
以前、法律にも限界のあることを書いた。私は教師と言う公務員だった。法を執行する下っ端役人として子どもを教育する仕事をしてきた。
子供に物を指導するとき、できることと出来ないことがあった。給食は用意は出来るが、食べさせることは出来ない。他のどんな学習も基本的には同じようなことがある。
たとえは悪いが、よく言われる、「馬を水際までは、引いていけても、水を飲ませることは出来ない」のと同じである。
世の中は三M時代(マネー・マイト‥権力・メディア)。これらが繋がっているから大変な力になり今日のように大変なことにもなるのだが、子供を育てるのは,この三者が束になっても不可能なことである。
それは子供の心を捉え育てる事の難しさにある。心を把握し、行動を左右したように思っても、こちらが出来るのは上っ面までで、本当のところは本人の気持ちにゆだねるより仕方がない。そこを多くの政治家も学者も勘違いしていないだろうか。
法を作る政治家も、それを執行する大臣から私のような下っ端の役人も、公務な携わる(法を執行する人)人はその限界をわきまえるべきである。
まして政府は、法を作りそれを執行する両方兼ね備えた責任者である。さらに、総理大臣はその1番の最高責任者である。最高責任者と「言えども」と言うべきか、「だからこそ」と言うべきかは別にして権力の限界を基本としてわきまえ、やってはいけないことではないか。
教育の7つの提言(教育三法)を一つ一つ見るといい。どれ一つとっても、子供と現場を見なければ結論の出せないものばかり。
『不適格な教員を教壇に立たせない』と言うが、そんなことは当たり前で、現在は許され、許してきたのか?と言うことになる。これは、法律の問題ではない。副作用どころでない免許更新など考えなくても現場的には方法は山ほどある。これは現場を知らないだけの話。
教育改革になぞらえると(ここから少々毒舌)
法律を作り、権力を用い預かる人はその役割と限界を承知しているのは、最低限のモラルや規範意識だろうし、その分別や区別がつけられるかどうかは、その立場に人の最低限の基礎学力ではないかと皮肉も言いたくなる。
ついでに言わせてもらえば、美しい国を作るため、まずしなければいけないことは、教育を左右する法律を作ったり、それを使う権力を持った人が限度わきまえられるように、再教育することでないか?法律を作る人の法律が必要になる。まったくもってややこしい。
野党も発言の失言を突っついてそろいも揃って寝転がって不登校をやっている場合ではない。政府や与党のの言い間違いではなく正気で、限度もわきまえないでものを言う、その基本的な誤りを明らかにすべきなのではないか?しかも、教育国会だとすれば前国会の遣り残しの責任問題(やらせ・いじめ自殺・未履修の行政責任)は曖昧のままにしていないか?これは宿題のはず。
国会では与野党揃って
「ボタンの掛け違い」をしている。
小泉劇場は大衆剣劇、安倍劇場は底抜けお笑い。
こんなのは芝居小屋ぐらいまでにしてほしいものだ。
こんな暇があったら、大人(とりわけ教師は)は①子供を無視せず子供の声に耳を傾けること、②全国民は地球の温暖化から地球を守ること、と言う法律を緊急に作ってほしい。
それこそ、これを破る乱暴なものは、『大人』の免許証の更新制や、政治参加の出席停止処分があってもいい。
評価の判定は外部機関ではなく、法の対象である子供と地球そのものが評価してくれる。
これはやるべきこと。