勝ち組・負け組みの時代か?

世は、競争による格差社会の様相を呈し、『勝ち組』・『負け組み』と区分けの言葉が分りやすく社会に伝わった。どちらかと言うと、この言葉は、負け組みから発した言葉ではないかと思う。
 確かにそのように区分けして分りやすい時代はあったし、現在も競争は限りなく激しさを増すようだ。
 競争原理の理屈は限りなく持続可能だろうか?論理的に言うと、勝者は少数であり、繰り返すと、勝者はますます少数化し最後は競争そのものが成り立たず、勝者はいなくなる。

 実際も、「勝ち組」と区分けされた、人たちが本当の「勝者」になれない現実が、急速に進行しているように見える。
 それは、ワイドショーの事件だけでなく、職場や隣近所の身近なところから、世界で一人勝ちし、世界の超大国と言われるアメリカも、同じではないか?

伝えられる銃犯罪、ワーキングプア、医療や教育ばかりでなく、『自由と民主主義』を標榜する国そのものが、世界から怪訝な視線を避けられないでいる。それらが今後好転するとは国の内外でも、最高権力者自身さえも、考えていないのではないか。
 ベトナム同様、イラクをどんな形で撤退しても、アメリカへの信頼は下がり、国の内外で、「勝者」の判定は得られないだろうと思う。せいぜいリーダーの撤退の面子や大義名分だけだろう。
 超大国アメリカにしてそうだから、まして単にお金や権力や名声を得たと言う『勝ち組』からどんな実態や素顔が出てきてもおかしくはなく自然。むしろ逆さまの傾向が強まってでてくると思う。
 なぜなら、見かけと実態の乖離は意外性だけでなく、度を越した競争の内在する矛盾の影響は、勝者は敗者よりより強く多く受けるだろうと考えられるからだ。(敗者はリタイヤできるが勝者はできない)
 既に小学校の教室にはその傾向が現れて久しく、一般的とも言える。
 『教育格差』の原因を家庭の経済力や経済を背景にした学校の条件整備に求める傾向があるが、一面納得するが、「的外れ」だと思う。
 「美しい国づくり」と言って、国がその的外れをやり、野党やメディアもそのチェックすら出来ないのだから、しばらくは大変だろう。
 的外れの矢はブーメランのように、即、己に戻ってくることを知るのに材料には事欠かないし、すでにその時代になっている。
 メディアのように意外性では済まないし、お祭りでもないのに、『踊らにゃそんそん』と乗り遅れまいと、調子に乗って(ノリノリで)踊っていると、とブーメランは自分に戻ってきて自分を襲う。踊っている人は自分の投げたブーメランとは気が付かない。
 
 最近は「自業自得」の言葉もあまり聞かなくなったが、時代的には『ノリノリ』の方が、合わない過去のもの。

 

 

 

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