世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
学校と言うところ③先生その3
乳飲み子を見ている人が、そのあかちゃんが泣き出して、何はさておき、そばの駆け寄らなかったら、どうなるだろう? 多くの母親はそれを極普通にやっている。
学校の先生は間違いなく教育公務員で、法令に基づき、上司の意向に従い仕事をする立場にある。『先生』としては子供からの信号と上司の意向とどちらを優先すべきだろうか?子供からの信号と、法令や上司の指示が違うとき、どちらをとるべきか?
そんな場面は、日常的にも、長い期間に渡ることであっても、対応や指導方法では常にある。子供の先生としての立場では、まず子供のほうを優先するのが本来だろう。しかし立場上は、法や上司の意向に沿わなければならないのも本来である。
多くの教師は、その狭間に置かれ悩み、場合によっては指導力が問われ、処分の対象になり,自ら職を失い、家族や生活を、犠牲にしなければならなくなる場合もある。それは、大げさでなく、どこの学校現場でも見られる状況である。
家庭科の調理実習で、失火したとき、担当教員が、『大変、大変』と校長室に駆けこみ、報告し助けを求める先生の話は笑い話にならない。これに通ずる教師の行動は、昔からどの学校でも日常的に良く見られることである。職員室でよく聞く子供への非難やぼやきの声には、『それであなたはどうしたのですか?』と尋ねたくなるのは少なくない。
子供への罰として、校長室で校長先生に叱ってもらう風景も、勤務したどの学校でも見た。子供にとってどんな意味になるか、その担任も校長も考えてのことだろうか?教師を放棄していないか?放棄させていないか?
ここで言いたいのは、先生が子供の先生としての第1義的な仕事に集中しにくい現状にあるにも関わらず、さらに法や権力を強めようとしている。
いじめの信号の見落としも構造的な背景を持っていること知を知らないのだろうか。
子育てや教育では、稲を育てる農家と同様、権力や法の限界を知らなくては始まらないのです。
教育の場では、上司も部下も知らなければならない最低限のことです。
子供にとって先生が必要なのか教育公務員が必要なのかが問われているのです。
しかし今の権力も、一般の風潮も後者を求めているようです。
この風潮(世論)は自然に出来るものでしょうか?
(今日も、メディアは世論操作の結果を世論調査して世論調査の結果として発表していると敢て指摘したい。例えば今の時点で、取りインフルエンザの人への感染の不安を世論調査しても、欧米の先進国より可也低く出るはず。何故なら欧米と比べ関係行政機関や全てのメディアが対策を採らないだけでなく危険性の情報が伝えられていないからです。人への感染の可能性は、言葉のあやも駆使し、押さえ込んで報道しているからです。不安を抱かないのは当たり前なのです。
同様なことは、先進国中最高の自殺大国、教育で言えば、不登校児や発達障害児の膨大な数とその増加。にも関わらず、実態をよそに問題意識は低いことでしょう。報道機関が社会に何を伝えようとしているのかため息が出るが、事実をきちんと報道しない現状では、国民は知りようがないわけですから、予想される当たり前の「世論」であり「結果」です。現在の多くの世論調査の数字は、工場の「製品」のようだ。)