目からウロコ

昨日、都内のあるホールで、左翼系のリーダー的な役割を担っている学者と、ある右翼団体を主宰するリーダーの一人との対談があった。お二人とも登場するときからにこやかで、途中何度も、会場の爆笑や、拍手喝采をあび、気持ちのいい時間で、終わった後もすがすがしく、遠かったけれど、来てよかったと思った。

 お二人は出口のところでそれぞれ著書のサインセールをしていたので、私はその右翼の人に『良かったです』とお礼を言ってサインをしてもらい本を買った。その人はステージ上でも、著書の中でも、主体的な姿勢が印象深かった。 勿論、右と左だから、価値観は違うのだが、聞いていて、主体性や論理性、純粋なところは全く共通していた。だから全体的には8割方【両者に共感した】。(2割は私自身の価値観だったかもしれない)

 私は左翼系と言われる主義主張は結構なじみがあったが、右翼がどうの話とか、目に入る言動以外、あまり付き合いはなかったのでかねがね、右翼思想の源や主張を知りたいと思っていた。直接主義主張を聞いたのは初めてだった。
 私は、その本以外でも、勉強して見たいと思った。
 
右翼も左翼もこの命名自身誰がつけたかわからないけど、あまり良くないと思った。思想や価値観の違いを ○×式に左右の対極として表現すること自体に過ちを感じた。一般社会はそうなっているようだから、全体的に社会の分析の仕方が間違っているのだろう。

  後もう一つ感じたのは、昨日の対談の設定は前向きの発想でいいのだが、まだまだ「両陣営」と言われるようにそれぞれの組織が閉鎖性を持っていると思う。
 現在既に,国内のダイナミズム【力学】で日本社会が動く時代ではない。社会を動かすグローバルなダイナミズムに対し、国内の左右の陣営に関係なく探らなければならない時だろう。  

各陣営(政治勢力)にとって,日本は敗戦まで日本から見た世界の構図だった。今は明らかに、世界の中の日本、からさらに、グローバる(地球)から見た日本のありようがどの政治勢力にも求められたいるし誰にも求められている。
 
なのに、現実は最高のリーダーですら、思考の枠組みが旧来同様に本中心になっている。

地球も子供も今のようなことをしていては救われない。そのぎりぎりの時期に来ていると思う。

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残す言葉 (会葬御礼)

亜子さん ありがとう。亜樹 ありがとう。真樹 ありがとう。正身さん ありがとう。 出合った全の人や出来事に感謝します。思いもよらないすばらしい人生でした。私はこれから私の好きな自然(ダルマ・法)に戻ります。(笑わないでください)そこでお袋やおやじに会います。久しぶりだから、合うのが楽しみです。皆さん一人ひとりも、大地の地球も物語やドラマを展開していますが、一足先に行ってます。ごゆっくりしてください。私はおかげさまで、最高に幸せです。   会葬しなくて言いのですが、関係の人へのお知らせに、この言葉を書き添えてください。  (年も年だし、いつどこでどうなるか分りませんので、とりあえず残す言葉を書きます。これはパート①で これからも時々書きます。  これはテレビで「宗教の時間」を見ていて書く気になりました。実際書いていると、涙が溢れました。困った涙ではなく、感動の涙のような気がしました。テレビに登場した叔父さんありがとう。)

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学校と言うところ③先生その2

昨日ある母親から子供の情緒的に出てくる子供の学校での行動のことで相談を受けた。母親はかなり憔悴していたが、子供の問題以上に、担任や学校へのやりきれない気持ちが強かった。母親からすると当然だろうと思った。
 
 保護者の学校や担任への不満やクレームは昔からあったし、ごく当然のことでもある。わが子が直接教育・指導される教師や担任に、要望や不満を持つのは当たり前ではあるが、現象の是非だけを問題視することが多く、先生の背景となる立場には思いが及ばないことが多い。
 
 そのことも当たり前ではあるが、昨日は親にこんな話をした。
 いろいろな話をした後ではあるが、「先生も行政の役人の末端にいるのです。仕事は子供が相手ですが、基本的には、行政機構や、上司の意向で仕事をする基本的な立場なのです。逆らっては自分の子供や家族を守ることが出来ないのです。」そんな話をした。母親は、「教師や先生」への期待もあってだろうが、良くは納得できないようだった。それも仕方のないことだろう。
 
 特に中央集権の強い日本の教育行政、学校制度の中で、具体的に執行するのは学校や教師であるため、指示命令する失敗は、【酷い先生・酷い学校】として映るのもやむをえない面もあります。しかし、今日ほど、教育科学やメディアが発展していながら、なぜ教育問題の背景が問われないのだろう?と疑問にもなります。そこまで、権力支配が浸透していると言うことかもしれない。
 
 しかし、物事には限界がある。このまま、教育原理に反した教育の権力化が進むと、国が持たないはずである。経済的に日本は人的資源に頼らざるを得ない。
 国民の人間力(マンパワー・ヒューマンパワーマンパワ)ーを育てることなしに海外依存の高い日本の経済は立ち行かない。
 これは、日本の経済を背負っている大企業の国際競争力や盛衰に関わる最重要な【要】だろう。読み書きができず、公教育の制度が十分でなく、資源や空間を無限と思われていた時代はある意味で教育の権力化もそれなりの役割を果たせた。しかし時代は進み、現在は資源や空間に限界のあることが現実化し、世界経済なしに日本経済はなりたなくなっている。グローバリゼーションは経済にとどまらない。ところが相変わらず【幕藩時代】のような感覚で、内輪もめ(内向きな政治権力のダイナミズム)や、最後に残った、人的資源の教育原理や科学を無視した教育の権力支配を暢気にやっている。温暖化など地球への環境不適応障害と同様、足元の、子供の育成まで障害をきたした今日、学校の先生も、「自分の生活や家族を守る。」などと暢気なことは言っていられない状況になっているはず。
 
 今なら、先生も首をかけなくても、やれることはいっぱいあるはず。先生に限らないが、保護者も誰も、そこに気が付き、動き出さないと、大差なく同じ道をたっどる
ことになる。

  持つ者も持たない者も残された道を
内輪もめしながら方向違いに歩いていては、一緒に迷い込むだけ。

 

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