世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
学校と言うところ①(指導力向上)
[指導力のない教師は教壇に立たせない。」そのため免許を更新制にするらしいのでそれに関して書く。
40年近く前、埼玉県のある小学校で、新卒で教師生活を始めた。特に始めの1年は仕事も分らず、きょろきょろしながら、周りの先生方を見よう見真似で、3年生を担任した。
大きな公団を2つ抱え、当時「教育ママ」の言葉がはやりだし、男のこの遊びで『安保反対』と掛け声をかけて走りだしたり、マンガの「シェー」のすっとぼけたポーズが流行し、教え子の一人は「マンガ道」の、藤子コンビに会いに目白のアパートを訪ねたりしていた時代である。
私はスポーツが大好きだったし早く教職に慣れたいと言う気持ちもあって、近隣の先生方と野球チームを作りたいと、野球が好きだと聞いた隣の学校の先生と連絡を取り、打ち合わせをした(そこに至るまでに周囲からこそこそ声のへんてこさは感じていたが)そして他に呼びかけチームを作ることにした。話はそこまでででオシャンになった。後で聞くと管理職(校長や教頭)が聞きつけ、相手側に止めに入ったそうだ。私は その相手から後からその話を聞くだけだった。
当時、学校の教員は殆ど管理職以外は日教組の組合員だった。戦後からの経過を見れば、日本の殆どの地域が同様だったようだ。
地域の組合の役員は、出世の踏み台の感じで、職員の取りまとめ役のようで、学校内では殆どの組合員(教員)は、人間関係も教育観も指導技術も管理職の求めにべたりの印象だった。まして、世間で言う『日教組の偏向教育』は私はその学校だけでなく退職するまで、見たことがない。(日教組は丹頂鶴
のたとえは、かなり当たっている)実践ではそれどこではなく上司には忠実だが、子供や教育上から見ると、多くの疑問を感じ、仕事の慣れていない私でさえ『これなら1年でマスターできる。』と自信さえ持った。
マンモス校だったため、2年後学校を分離した際わたしは新しいところに期待しそちらに移動した。
ここで私の組合との関係を記しておく。学生時代は安保闘争で学生運動も盛んだったが、私は入学してすぐ、高度の不眠症に陥り(35歳ぐらいまで最大の悩みだった)通院していた。学生運動どころではなく、ブラスバンドや、剣道部に所属しながらも関心は心理学や哲学、宗教が中心だった。心理学を専攻し洗礼を受け日曜学校の先生をしながら座禅を組んで卒論は「禅の心理学的分析」に取り組んだ。その間、友達とキリスト研究会と、大学4年目は心理学研究会を立ち上げた。おかげで1年留年し高校で倫理社会を教えながら大学にも通った。そんなことで、自治会からも良くは思われていないと関係者から聴かされた。私には全く関係ないことだった。
学校現場に入っても、もともと組織嫌いの私はずーと組合には入らなかった(妻は組合に入っていたが、関係なかった)
周囲は殆ど組合員だったが、ハートと教育技術がわたしの判断基準だった。だから埼玉時代はずーと組合員ではなかった。それどころか、学生時代の経歴を買われ、道徳教育では管理職から特別に処遇されていた。
初任の学校の職員室は奇怪な生物がすんでいるような空気の悪さを感じた。人間的な不浄・非情さ教育的な不合理さに、学校分離をいいことに新設校に移動した。
2校目で経験したことは、若い教師4人での勉強会を、学校にに隠れてやらねばならなかった。初任の学校で野球チームを作ろうとして上司に受け入れてもらえず頓挫しただけでなく、2校の経験でて分ったことは、上司は、フォーマルでないどんな集まりも快く思わないということだった。それがいっぱい屋であろうと、スキーやボーリングであろうと同じだった。
どんな動きも上司に筒抜けになり、周りの見る目が変わり、いつの間にか先生方から(浮いた )状態にさせられると言うことだった。若い教師4人の共通点は、他人に下駄を預けるのではなく、納得できる仕事をしたいと言う1点だった。4人のうち2人は組合員だったが私ともう一人は、組合には入っていない。学習のテキストは著者は忘れたが『子供の遊びの歴史』だった。要するに子供を丸ごと歴史的にも捕らえたかった。そんな勉強会を土曜日の午後、それぞれ時間差で学校を出て、人目をはばかりながら、一人の下宿に集って勉強した。
経験した1校めも2校目も周囲の空気を感じて動かざるを得なかった。結局そんな空気もいやになり、自分も含めやってる仕事が本物ではないのではないかと疑問になり、東京は違うだろうと考え、東京の採用試験を受けなおして入った。(勤めていたときの学校長は、推薦状を書いてくれるし、学校選択でも、かなりわがままもいわせてもらい、あちこちの校長から直接来てほしいと働きかけがあった。私が組合に入っていなかったからだろうと後から、思った)研究熱心な学校へと希望したら足立区のある小学校を教育委員会から勧められた。そこは確かに研究熱心で、指導の見識や技術は埼玉をはるかに越えていた。ただ組合員は6-7割で埼玉よりは少ないがねっしんなかんじがした。周りから『日教組の反主流派(共産党系)の強い学校』と聞かされた。(これも後から思ったのだが、教委は私を組み合い対策として配置したのかもしれない)しかし、ここでも、私の基準はあくまでも子供にとっての教育的な意味があるかどうかだけだった。上司の言うことも組合員の言うことも、鵜呑みにしないことを信条にしていた。何故なら私の不眠症から立ち直るには、自分の感性と体感できるような確かな判断以外に寄る術がないことをいやと言うほど知らされていたから。それ以外自分は生きていけないと身も心も100パーセントそうなっていた。
管理職や管理職を目指している人とも、職員室では組合員と一見して分る人とも、組合は嫌いだと言う先生とも、関係なく付き合った。逆に言えば、私は組合にも、上司や教育の上部機関にも違和感を感じ、自分なりに納得できる確かなものを求めて東京に来たのだから当然と言えば当然の態度だろう。校内の職員の人間関係はとかく、立場でグループ化されがちになるが、私は見方によれば,八方美人的でコウモリのようだったろう。しかしそこでも、若者の勉強会は埼玉同様、こそこそ集まるらなければできなかった。
この自主的に勉強できないこれらの学校の体質はどこから来るのだろうか。全国的な民間の研究会へ参加すると、多少地域差はあるが日本中のようだった。自主的な研究会参加は嫌がらせだけでなく、事務上の差別(研修として認めてもらえない)や、時に家族をばらばらさせられたり、通勤が困難なるなど生活が立ち行かなくなるような差別人事の対象になった話は昔も今もよく聞く。近年はさらにその傾向は強まっている。今は日本中、最寄の学校のどこへ言ってもそんな話は山ほど転がっているはずだ。
今は先生方は組合員であるかどうか関係なく、『物言わぬ教師に』になって久しい。
「教師の指導力の向上」は誰も文句のつけようのないことだが、学校で求められるのは、国を中心とした権力関係のの枠内に限られている。(同じ発想に立てば、教育政策やその行政を評価する機関が必要になるはずだが、それはない。)
いままで、いいだけ教師の自主的な研修を押さえてきて免許証の更新制といっても、それが指導力の向上を意味しないことは現場人なら立場に関係なく分るだろう。
大体、教師の評価と言うが生徒の学力テストは100点が1番いいが、教師の仕事は、外部評価で0点も困るが、100点も本質的に困る。教育は最終的には子供の個別であり、教育的なすりあわせである。子供にマッチしているかどうかであり、外部にマッチしているかどうかではない。子供にマッチしているかどうかのものさしを外部は持ち得ない。何故なら子供との教育関係の中でしか、ものさしは意味を成さないから。(一般的にもそうだが、その上教育は一回性という特徴もある。勘違いしてもらっては困るが一切外部の話や指導を受けないと言うのでもないし、不適格な教師も勤めさせよと言っているのではない。ここでは詳述しないが方法は現場的にはいくらでもある。実際、自然的ではあるが、それは今日も機能している。その機能を高めるのと、免許の更新性や外部の評価は全く異なる)
外部がもてるのはどんなに偉い学者であっても、自分たちが求める物差し以外に持ち得ない。教師がそのものさしで子供の前に立たなければ、家族や生活が立ち行かないとすると、それは教師の教育放棄・子供放棄でしかないし、このシステムを強いるのは、実際上は権力や行政の教育放棄を意味する。(今までもそうだが、子供に直接関わるのは教師なので、権力や教育行政の間違いも一般の人には、学校または教師の個人に帰してしまう。) そんな 原理的なことすら理解できていない全ての与野党に呆れる。
学校の一つの内実と、教育評価における外部評価の
限界を述べた。
次回は、校内研究の実態を拾い上げて見よう。