学校というところ③先生その1

ここは教育の基本に関わる話で、『先生』について書く。40年も教師をやり、それなりの【垢】のようなものが染み付く。子供の人格を育てようとすれば、まず子供を見なければ始まらない、子供の話を聞かなければ始まらない。ところが、教える課題が優先し、子供を見ないで、話を聞かないで教えることがでてくる。変なもので、それでも、形的には教えたようになる。課題が多くそれが癖になる。結局教師(自分も含め)は、子供や他人の話を聞かなかったり、ないがしろになりがちだ。そうして周囲を見ると、よく喋る先生はいるが、聞き上手な先生は少ない。何か職業病のような感じがする。ところが、定年も過ぎ碁会所へいっていると、わたしよりもっと先生のような人が多くいたのに驚く。(まだ教師はいいほうかなと思うこともあるぐらい)特に男性が聞き下手が多い。尋ねることが苦手なようだ。教育再生会議の内容や、国会の先生方を見ていると、かなり重度化しており、自分はまだましかと思うぐらいだ。こういう社会の構図だから、教育の原理を無視した教育政策が{普通に)提起され、堂々と論議されるのだと思う。温暖化異常気象・財政赤字や年金同様、子供たちに(つけ)ばかり残している。
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教育国会の先生方の顔

昨日、「教育国会」と言われる議論の様子を放映していた。テレビに映し出される、質問する人、答弁する人、座ってでそれを見ている人がどれも、喜劇めいたお芝居に見えた。国会は、お金をかけた大きなセットのようだ。

質問する人も答える人も、自分の言っている意味が分らないまま、まじめそうな顔で論議している。要するに学校現場や子供の実態を抜きに喋っている。それは全体を通していえるようだった。例えば、基礎学力を上げるのに、「学習時間を1割増やす」と言うのがあった。
 
  これは現場や子供からすると、簡単なことではない。 ①子供の下校時間はどうなるか?①割り増しにすると、しょうがっこうの高学年は、7時間授業の日が,週3日になる。今でも、午後は集中切れになりやすく、比較的負担の少ない教科を配置して配慮している。しかも3時ごろになると、『塾があるから』と学級活動などせず、急いで下校する子供達もいる。

 私は定期的に親達と教育懇談会をしている。テーマは

「子供にとっての水や太陽」要するにこどもの成長にとってどうしても必要なものの意味なのだが、そこでは(何をどのようにが問われる)学習時間はどのようにになるが、やらなくて枯れるし、やりすぎると、根腐れする。(最適)な量は、最終的には子供によって異なるが、国会の先生のように、長ければ学力が上がるというようなものではない。こんな判断力では庭の水遣りも出来ない。物を育てるときの(最適)は科学的なものであって、大人の都合や、主観で決まるものではない。

あの先生方は科学的に(最適を)探れるような立場いいるのだろうか?答えははっきりしている。これは政治家が、国会で論じるようなものではない。国会なら何でもできるというものではない。

 ②先般北海道大学の研究チームが小中学生の『うつ状態』の調査結果を発表し驚くような数字が出ていた。他の現象も合わせると、子供たちは非常に疲れていることが分る。現場で子供に向き合っていると、そんな数字がなくても殆どの教員はとっくに分っていたことである。 ③従来、教育課程の編成では国を始め上から、学習時間は実態を見て子供の負担にならないよう特に配慮せよ指導されてきた。単位学習時間を40分から45分に伸ばしたときも、学校の拘束時間(下校時間)は変えないと指導してきた。今回その配慮はなくていいのか?
この3点を見ただけでも、単純に学力上げるために授業時間を延ばしていいはずはない。授業時間一つとっても教育上の最低限の分析が必要でその結果として時間の枠が決まる。ところが国会の先生方は、そのことをまったく抜いたまま、『1割云々』している。
 3~4年前女性の文部大臣が、ゆとり教育を批判された時、全国の学校に宿題を勧めた。これも教育的には全くバカな話で、宿題の有効性は、子供により、全く違っていることが分っていない。宿題が学習意欲を削ぎ、学力低下の原因になることも珍しくなく、多くの大人も経験してきたこと。まして今は、塾の塾へ行ったり、学校へ塾の宿題をもちこむことも、目にする時代である。子供はあっちこっちの残業を背負い込んでいる。
  

  そうしておいて、躾や生活習慣の確立を親に課す。「お父さんやお母さんの残業」「子供の塾」の実態にありながら、『夕食は家族揃って』と平気で言う。
 教員も夫婦共働きは多い。だから、現在教員の家庭で、まともな家庭生活(食事・会話)をしている例を見るのは難しい。親も先生も、まともな家庭生活が営めなくなっている。「子供は風の子」は遠い昔の話。これでは、もともと生物である子供がまともに育つはずがない。自然の理である。
 
 そんな当たり前のことが、国会で論議する先生方には全く見えていないようだ。
 教師をやっていると、こどもの目や表情から、内面を推し量り仕事をする癖がつく。職業柄か、論議している先生方を見ていると、先生方は目の前や周囲に反応し、その分、頭の中の構想の広さや深さに欠けているのがよく分る。

 今や、望遠鏡で、月から地球を見るような目と想像力、子供の心の微妙なところを捉える、顕微鏡で覗き見るような目と想像力が誰にも求められているはず。
 その想像力を持った目は顔に表れるもの。子供の現状を考えると(変だけど)目の奥は、苦渋に満ちたものになるか超越したような悟った澄んだ顔になる。国会の先生には、その両方の顔がない。だから、語る言葉と、目や表情のちぐはぐさが、安っぽいお笑いのお芝居のように見えるのだと思う。

1度、テレビに近づいてよくよく見るといい。
 
 えっらそうに書いて恐縮だが、本当にそう見えたのだから仕方ない。

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