大局と方向

囲碁をして、強い弱いは、一言で局面を見る広さにあるのではないかと思う。その全体認識の広さが石(意志)の方向を決めるようだ。さあこれから修行してこよう。ところが、メタ(全体)の認識は思うように広がらず、今日も苦戦するだろう。でも、それにはまっている。それが楽しい。 
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学校と言うところ教委見直し②

準備される教育三法の一つに、国の地方の教育委員会への権限強化がある。
 現在ですら、国家の教育行政の中央集権的な体制(上意下達)と言われる
中にあってさらに強めようとしているようだ。国、教育委員会、学校、子供、この関係は人や立場により見解は可也異なってくるが、私が学校で経験したことを、思い出し、私なりに整理しておきたい。私は3県、12の学校を経験した。どの学校も、いろいろな意味で、法や制度を越えた上意(国や教育委員会)への気の使いようは、一般社会では見られないようなことがまかり通っていた。例外はなく違いはニューアンスの範囲内だった。公務員だから当然と言えば当然だが、子どや、教育を中心に考えると多くの  ? の違和感を感じることが多かった。世間で「日教組云々」の話を聞くが、実態とはかなり違い、結果、教育そのもをを曖昧にし、ある意味で、教育行政を進めるときの小道具の役割を担っていると思う。(具体的に論じないと、意味不明だとは思うがここでは省く)
 私が卒業して始めて着任したのは、埼玉県のある団地の中にあるマンモス校だった。初めての校内の研究授業で教育委員会から、指導主事と庶務の職員が公用車で学校へ来て、研究会に参加した。来たのは、昼の掃除の時間で、玄関への出迎えは、管理職と事務等のようだった。
研究会が終わって、見送りは、校長の指示もあって、全職員が玄関への廊下から玄関、玄関から校門のあたりまで、並び、『ありがとうございました』と、深々礼を言った。研究会では、研究の論議とは別に、時間が来ると、講評と言う形で指導主事は研究内容に評価を下し方向を出す、学校長が、職員を代表して『謝辞』を述べ、全員が礼をする。これはどの学校も同じようで、現在に至る。どうも戦前からの伝統的な流れのようだった。
 指導主事は、教育委員会からの派遣なので法的には上司当たる。指導主事の指導は、文科省の方針に沿ったもので、逸脱することはないし、方針以外の視点を持つことはない。担任や同僚が子供たちを念頭に指導方法を選択し計画を立て実践するのだが、指導主事の念頭にあるのは、中央の方針だった。『任務だから仕方がないと言えば仕方がない』ただ、研究と言う言葉とはほど遠い。教育が科学だとすれば、科学的な研究とは言えない。
 今後この傾向は強まるだろうし、管理職などの気遣いは、語るのも恥ずかしいものがどの学校も山ほどあるがが外部にはほとんど出ない。(曖昧だが、学校への信頼と、内部情報の自己規制があるのではないか)文科省の教委への権限強化だが、例えば、好ましくない「やらせ」の指示でも、都道府県の教育委員会から市町村の教育委員会、学校長から、PTA保護者にまで徹底している現在、さらに強化し酔うとしている。以前ここで書いたが、子供相手の 教育では法や権力には限界がある。そもそも子供あっての教育である。教師であろうと丈夫の権限を強めると、教育そのものが子供から遠のく関係にあるのは必然。教育を語るとき、『子供にとってどうなのか」の観点を忘れてほしくない。国会や、メディアや周囲の人々の動きをしっかり見ておきたい。自分自身も子供の立場にどの程度立てるか、問われることになる。そう思う。

追記  それにしても、立て構造の学校には、教育にふさわしくない、時に教育を疎外する建前や、面子が優先される

社会だとつくずく思う。それも問われている。

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