権威主義の落とし穴

ある意味で最も矛盾を抱えた日本は斬新な政策が求められているはずだが、権力者の権威主義が災いしてかそれに答えるのが難しいかもしれない。

それどころか、装いを新たにして古い権威を引っ張り出している。

権威主義は世の中が順調な時は効率的で良いが、新しく開拓する時は支配される側だけでなく支配する側も眼を塞がれ見えにくくなる。

今の日本がそう見える。

 

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権威に染まっている自分との戦い

権力主義は社会の末端のそれを最も嫌っていると思い込んでいる自分自身までもが深く心根に染み込んでいるんだと改めて思った。

こうやって思いを言葉に置き換えている時、(出来るだけ率直に)と心がけているのだが、自然には出て来ない。

心の内で(率直)を意識して言葉を選んでいるのだが半端でない努力が必要で、自分の(率直・)は率直でない結果の作られた率直である。

権威に染まっている自分との戦いは4勝6敗ぐらいか?

権威主義は日本の文化や日本人の心性がもつ強い傾向なのかも知れないが、権威をしょっていては重くて三途の川をとおしてくれないかもしれないから「6根清浄」とくるか。

為政者には扱いやすいキャラクターだろう。「これが目に入らぬか?」の歴史は長い。

 

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両者の言い分が聞きたい

アメリカのシリアへの武力介入が取り沙汰されている。「アサド政権の毒ガス使用に対する国際的に放置出来ない。」が理由のようだ。

すんなり納得できない理由が2つある。

アメリカはベトナムで枯葉剤を、イラクで劣化ウランを使ったとも言われているがその事との整合性はどうなっているか?

今一つは、いつものことながら一連の紛争の情報のほとんどが一方に偏り背景が描けないことである。

世界を覆う(新植民地支配)と全く無関係だとは考えにくい。

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「有識者」や「専門家」を用いた仕掛け

消費増税の最終的な聞き取りや図書「ハダシのげん」の貸出し方法を決めるに当たりそれぞれ「有識者」や「専門家」の意見を仰ぐらしい。

自ら「有識者」や「専門家」を名乗る者はいなだろうから、企画・実施する側が一方的に指名すうわけで、その意向を組めない者は要請そのものを受け入れないだろうから、客観性や公正さを装い責任逃れの儀式的な意味を感じてならない。

まして図書の是非は表現者と読者の感覚によって評価は100人は100通りであり、特定の専門家はあり得ない。

個人の感覚や思考を担う人格の尊厳を無視したこのやり方は、2重に誤まっていないか。

消費増税も、この段階で「有識者」に聞いても、基本的に(了)としせいぜい『慎重に』と駄目押しを視政府の「慎重判断」を印象付ける仕掛けとなるだけではないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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