愛国心(教育基本法 )続

朝起きて、朝刊を開くと、総理vs小沢代表 党首討論の写真が1面をきれいに飾っている。
昨日、小沢代表が総理大臣に持ち時間のほとんどを使って教育問題で挑んだらしい。
小沢代表は、穏やかな口調で、教育問題の認識を尋ねたら総理はそれを受け「教育の基本で思い出すのは、《しっかり抱いて、そっと下ろして歩かせる。》という言葉だ」と持論を展開して答えたそうだ。人心の荒廃について尋ねると、「心の問題」と答え、教育行政の責任を尋ねると「基本が分ったら次へ進む体制作り」
さらに「国家が責任を持てという民主党の対案の審議を進めていきたい〉と答えたそうだ。
「競って芽を出さなきゃちょん切るぞ」が現実じゃないか。異常なほど多くの不登校や発達障害の子供達を出しておいて。質問者も 原因を少しでも考えての質問か。 
今の子供たちや学校の
実際が全く頭の隅っこにもない。
 党首討論も言葉遊びのワイドショウの続きか、超おすまし顔の漫才か とでも思わないでは(まとも)には見られない。朝日新聞もそれを(まとも)に取り上げているから立派だ。
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愛国心

教育基本法の変更と相俟って、国会でもメディアでも変更の中心とも言われてる「愛国心」について論じているのを目にすることが多くなった。
昨日国会では総理大臣が「学校は指導する責任はあるが子供たちの内心の自由を侵害するものではない」と質問に答えたらしい。
これが今日大人が考えている日本の教育の要の論議なのだろう。
教育は文字通り、教えなければならないところと、育てなければならないところがあります。愛するとか尊敬するなどの心情はどちらでしょうか。
妻や子供に自分を愛しなさい、尊敬しなさいと言うとその結果はわかりきっていて「馬鹿みたい」と言われるでしょう。もしそうして欲しいなら、どうしなければいけないかを自分が真剣に考えるでしょう。 
日本の伝統的な子供を育てる言葉に「よく遊びよく学べ」があります。
(よく学びよく遊べ だったかもしれませんが)
今の子供たちを見ていてどうなっていると思いますか。
遊ぶ自然も、時間も、友達も大人に奪われていると思いませんか。子供が勝手に放棄しているとは思えません。結果として子供は仕方なくバーチャルなゲームにはまっているのではないでしょうか。こういう中でさらに子供に外から教えることを求める。
バランス感覚を失った方向音痴ではないでしょうか。大人たちは自分たちのやるべきことを棚上げして子供に求めているのです。まして、情緒や感覚や心という育てるべきところを教えようとしてるのです。この点から、与野党とも、全くわかっていないと思います。
一昔前、子供の心を省みない母親を「教育ママ」と揶揄した言い方がありました。
今は、学者もも政治家も「教育ママ」になったようです。
はっきりいって賛成・反対以前の問題ではないでしょうか。ほかの例でもいいから
解りやすく子供に尋ねるといい,本当に分りやすく尋ねれば、100人が100人
「NO」と言うでしょう。
世の中、方向音痴が多すぎる。
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政治文化

時々政治討論のテレビ番組を見る。与野党が左右に別れ、中央に司会者が座る。
時の政治課題を討論するのだが、国会のミニチュアみたいに見えることがよくある。それは討論に参加している人たち全員が話の聞く態度のよろしくないことだ。
よく聞かないで自分たちの言い分をアピールすることに終始し、時には感情の露出や不規則発言の付録がつく。
発言時間は公正に議席配分しているかのようにも見える。
政治文化という言葉があるが、政策や課題を文化的意味として捉えていれば もう少し丁寧な討論になるのではないか。文化は人の幸福のための意味や価値の追求
するということだが、価値を追求するなら、自分と考えの異なる人の話を聞くのはまずはじめの基本的なことだ。時間の制限もあるがどの政党もその態度があまり見られない。無党派で選挙も行きたくないが、必死に幸福を求めて生きている人のいることなど、頭の隅っこにでもあるのだろうか。社会的な想像力というか空間意識が感じられない。司会者も同じだ.NHKですらこうだ。
その後のサンデープロジェクト等は司会からコメンテーターにいたるまで、党派性が優先され、発言時間(情報の発信量)が一方的なのは、文化の香りどころか、政治的公平さすらどうかと思う。とてもじゃないが民主主義など口にしてほしくない。(しかしこれは番組制作や局の問題で、少しだが一般の視聴者も気がつき始め手いるのではないだろうか)昨日は田中真紀子さんが開口1番それ(メディアの問題)を指摘していた。彼女の人気の秘密を見た思いがした。
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老人の役割

子供と老人は似ているところがある。共に自然と関わることを好む。
人間のはじめと終わりの方が、自然と深くかかわり、(一般的傾向としてだが)途中はご無沙汰しがちになる。両者、止むを得ない所もある。
この春、一切仕事をやめ、家に入った。(これが私の実感です)
家に友達を呼び、近所の人と世間話をし、地域のアンテナ組合の世話役も妻と一緒にやっている。「父帰る」ではないが、何十年ぶりに、身も心も地域に戻り家に帰った。
実に心地がいい。
このことは長い間、忘れていたのか、諦めていたのか、仕方なかったのかわからないがどこかおかしい。ずうと自分と家族の幸せを求めてきったはずなのに実際はそうではなかった。
この経験や思いは自分だけでなく多くの方が経験しているのではないだろうか。
赤ちゃんや子供は、自分の内外の自然の大切さを主張する言葉も場も与えられない。リタイヤしたわれわれ老人は、実際の生活の上でも経験の上でもそのことを言葉にすることができる。
反省を含め、そのことを言葉にするのは老人の年代的・社会的役割では な い だろ う か と 自分に訊ねている。
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思い出すこと3

大学に入るや、自分は不眠症になった。、世の中は60年安保で騒がしい.樺 美智子さんも6月15日、デモの中でなくなった。私は、はじめは寮生活だったので、先輩に誘われ1~2度デモに参加したが自治会から陰口を言われるほど卒業するまで典型的なノンポリ・ノンセクトだった。臆病なせいか組織に入るのを、非常に嫌った。それでも、不眠症から抜け出すためにありとあらゆる事をした学生時代だった。
彼女に誘われ教会で受洗し、日曜学校の先生もやった。一方、仏教に興味を持ち、お寺で参禅した。下宿屋さんを5時前に起き、1時間ばかり座禅をし、下宿に帰って朝飯を食べ、教会に行き日曜学校と、日曜礼拝をした。それが終わり次第近くに店でラーメンをかけこみ、パチンコ屋さんへ行き(お金と相談だが)よく,閉店の蛍の光を聞いて帰ったものだ。そうこうするうち、禅の興味が膨れ上がり、日曜学校でも御釈迦さんの話をするようになった。そのうち、さすが変な感じがしてきたので、日曜学校も教会も行かなくなった。卒業論文は「禅の心理学的分析」だった。そっちのほうは熱が入り,同じような研究をしていた京大の佐藤幸治先生を訪ねて行ったこともあった。
結局はこれがライフワーク的なテーマになってしまった。
学生時代はほかに、ブラスバンドや剣道をやり、学生の聖書研究会や心理学研究会を友達と立ち上げた。駅の弁当売り、家庭教師・小岩井農場・新聞社・さらに留年した大学5年目は高校で社会科社会の講師もやった. 恥知らずの軟派もした。まさに難破船のように、滅茶苦茶をやった。教員になってからは、仕事や近所の関係もあって自民党や創価学会や共産党は勿論、極左といわれる人から物を頼まれたり、街宣車で走り回ったりする人や右翼の指導者とも仲良しになり、家の行き来をし、、飲み屋さんにも足を運んだ。どの人も私にはない尊敬できる心根持っていた。こんなことを自分の弟に話すと、笑をこらえられない様子で聞いているが自分にとっては、精神をぶっ壊さないで生きていくぎりぎりの選択だったから解ってもらえなくても仕方ない。たしかに溺れる者は藁をも掴むで、やってることは、他人から見るととんでもなく見えたでしょう。しかし、今自分は《これで》よかったのだと思っている。人は組織や立場では解らない固有の感性や価値観を持っている。感情でなく解ろうとすれば、夫婦や親子でも不可能に近い距離があるのだと思う。だから意味があるとも言える。


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教師の服装

どんな仕事にもやりやすい仕事着がある。コックさん,大工さん、交通整理のおじさんお医者さん等それぞれ仕事に合った服を着る。
今小学校の教師が学校長や教育委員会から指導されてる服装は、男子は地味なスーツにネクタイ。女子もスタンダードなスーツ。研究授業では、黒っぽい服。どちらにしろ若い人もおしゃれはできない。新人研修では徹底的に仕込まれるし日常管理職にも言われ学校評価では地域の代表(多くは保守系の有力者)からも名指しで注意される。皆さんはこれをどう思いますか。子供が親しめる先生の服装。先生も洋服を気にせず子供と一緒にかかわれる服。子供は汚れた手で遊んだり、下の失敗も時にはあるのです。
これなら,ちょとした想像力で今の教育の方向違いが、誰にでも1目でわかりませんか。子供の頃を思い出してもいい。保育園や幼稚園の先生がそんな服装をしてらどうななるか。「子供に配慮して」の声を聞いたことがない。
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K点越え

スキーのジャンップ競技では最近K点(危険マーク)を超えないとなかなか勝てない。今の社会の状況はどうも危険マークを越えていないか。
「格差社会」や「勝ち組・負け組み」などの言葉が出てきた当時はなるほどと思ったが、今はそれを超え、勝ち負けなく「総崩れ」状態の域に入っているのではないかとわずかではあるが思うようになった。
特に教室で見る子供たちの表情や近所で飲む居酒屋での話題などからだ。
勤務していた高級住宅地の学校の所謂「いい子」・・・・勉強ができたり運動の達者な子どもたちの表情が従来思われているほど良くはない。居酒屋では、酒代に困るほどの人や、家庭的に『訳あり』そうな人も世間話では勝ち組の立場で大声で論評する。
要するに、自分の現実と意識、見かけや立場と内実の乖離があまりにも大きい。これでは建前と本音の違いも大きいはず。こんな姿を見ていると、人が羨むような社会的権威を持った人や、大会社の大金持ちの社長さんも、意外と私事でお悩みの方も多いのではないかとの思いが沸く。何人の幸福にとっても家族・地域・自然はかけがえない。しかし実際は立場に関係なく多くがそれを確かなものにするのは難しく、根無し草になってはいないか。一線を越えたなと思うのはその辺からだ。
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本当に命が1番大切か

人は1番命が大切だと思っているようだが、果たしてそうだろうか。
私は心や気持ちだと考える。戦前の特攻隊、イラクの自爆テロ、自殺、死刑を覚悟の上の犯罪、ホスピタル、親が子どもの命を救うために自らの命を犠牲にしてでもと思う気持ち。等々。
自分が他人の心を奪ったり傷つケ壊しても、逆に自分が他人にそうされてもおまわりさんは来ない。先生や親や友達に助けを求めても気がつかなければそれまでだ。人の心を壊したり自分の心が壊されないよう気をつけなければならない。命より大切なのだから。
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反省

こんなに長いこと人間をやってると、どうしても格好悪く、人に言えないようなことも山ほどある。いえないような事は横においておき( ふーー~と一息)言えるような事の1つを記す。
今私は、体罰について
猛反対するが、かつてはやったこともあるし、意識的に肯定していた時期もある。24~7~8の頃、時たまではあったがやった。抗議されたことはなく逆に子供や親から褒められたこともあった。とにかく最終的にはまずいと思って自分でやめた。初めて殴った頃のことを割合よく覚えている。教員になって1~2年は手を挙げないと心に決めていたが、3年ぐらいたってから、はじめて手を挙げた。その日は1日中、家へ帰ってからもなんとも気持ちが悪かった。2回目は学校がひけるまで、3回目は給食まで、次は中休みまで、そのうち気持ちの悪さを感じなくなった。
その上、信頼関係があれば一つの表現だと正当化するようになった。確かに効き目はあると手ごたえを感じて自分の中では禁止しなかった。数年立って
あるとき男の子をしかるのに意識的に効果的な方法?でビンタした。すると急にその子が横を見、私の指が口唇の間に入ってしまった。歯茎から血をだし・触ってみると歯がぐらぐらしてた。お家に行って誤り責任は全て自分が負う旨はなした。許してくれて、教職が続けられたが、そのとき、自分の勝手さを思い知らされ
それ以後は体罰とはお別れした。体罰は(言葉も含むと思うが)麻薬中毒のように癖になるものだと思う。教育は目的と方法の片方だけでは成り立たないことを経験した。これも子供から学んだことかもしれない。
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