私的な生活

公私の区別は人によって違う。しかし誰しもその個人は私的な生活があり、さらに個人的な生活がある。

 それは、家族やどんな友人とも共有できないし、する必要もない価値観であり個人的な精神空間として誰もが天賦的に固有している。社会的には基本的人権の最たるものだろう。

 それが蹂躙される傾向にないだろうか?その背景は近代的な都市化などあるだろうが、これも限界が問われているように思う。
  職業人として言えば、家庭生活・家族生活は私的に当たるが、それは時間的に極端に狭められ、そういう中にあって、家族関係の中での個人的な精神空間はまた制約され、保障されにくい。
 今日の殺人バラバラ事件が家族関係にまで及んでいるのは、その表れの一つではないか? 社会の構造や、進み方を問うことなしに、単に家族のあり方やモラルの問題として、厳罰に処しても後を断たないだろうと思う。ましてで興味本位で奇異さを追い、性格や人格の問題にし、背景の奥を探ろうとしない今日の風潮は、方向音痴で、問題解決からはもってのほかだ。テレビは今日もそればっかし。
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限度

 以前、地球の無限と有限について書いた。ここではそのことを身近な社会生活に引き寄せて考えて見たい。

 「過ぎたるは及ばざるが如し」とか「腹八分目」と言われるのは、限度を超したらいいことはなく、「逆の結果になることさえある」のたとえである。地球だけでなく社会の大きな構造も身近な生活でも、物の限度が問われているものが多い。

 そもそも家庭の家族生活も物理的に限度を問われているものがかなりあるのではないか。家族が一緒に過ごす時間、親子の会話。子どもで言えば、勉強時間や遊び時間、学校生活、派生した問題として、不登校や発達障害、いじめ・自殺も同様に限度を越した結果の問題である。

 会社も正社員、派遣社員、フリーター、ワーキングプアの問題も限度を超えているし、昨今の風潮のような、自殺や犯罪もある限度を超えた結果の問題である。
 
 公的機関である夕張市の財政はもとより国の借金は世界的に見てもはるかに限度を超している。
 
 この国のリーダーの限度の認識は大丈夫かと心配になる。安倍首相の年頭の挨拶をみてそのことを感じた。細かくは言わないが、経済の実態を考えると、(いろいろあるが)あの内容はタイミングが悪い。勝手な予測だがアレでは与党内でも浮くし、バックの財界とも(表面的には良好な関係に見えても)水面下ではかなりガタガタするだろうと思う。あの言葉は財界と利害が一致しないはず。
 端的に言うと、首相は(夏の参院選を意識してのことだろうが)この1年、今の好景気を国民が実感できるものにしたいと、目標と言うか公約のような形で国民に述べた。そうすれば当然この時期、春闘・賃上げに繋がる話になる。御手洗経団連会長も言うように、企業と言えども、今日そんな状況にはないだろう。(私は会長の認識が正しいと思う)これではあちこちにほころびが出るはず。
 要するに一部で揶揄して言われているように、「世間知らずのおぼっちゃま」よろしく、現状認識における限度の感覚が機能していない。これでは政府を支持し応援している人たちも心配になるだろう。

 「大きなお世話」と言われるかもしれないが元教師の感情で言うと、仮に価値観が私と違っていても、誰一人、自ら墓穴を掘ったり自滅はしてほしくない。ブッシュさんのように、日本の首相には現状の抱える限度の智恵を授ける人はいないのだろうか?
(少々はいいとして)現状との乖離が限度を越すと、何事も(教育は勿論)結果は裏目に出ることを早く知ってほしい。
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国際惑星地球年

この記事は、1月5日朝日新聞夕刊の「科学」の欄で読んだ。
 こんないいニュースは久しぶりと言うか、心をパーと明るくしてくれた。
 地球で起きている自然現象を詳しく探り、「社会のための地球科学」をアピールする狙い。今年から3年間を目途に国際的なプロジェクトを組み早速動き始めるようだ。

 科学計画として
「地下水」「災害」「地球と健康」「気候変動」「資源」「巨大都市」「地球深部」「海洋」「土壌」「地球と生命」の10のテーマを掲げる。

 新年のこんなすばらしいニュース。感謝 感謝だ。メディアはめったにニュースらしいニュースを伝えないが、昨夕のこんなすばらしいニュースは全メディアで取り上げてほしいものだ。あまりいい話のない世の中だから、こんなニュースが伝わると人々はすごく元気をもらうだろう。
 特に全国の小中高生に、分りやすく丁寧に報道してくれるといい。(間の抜けた年頭の挨拶をしたり方向違いの対策を提言する人たちは理解するのが無理だろうけど、できれば?)政府や教育再生会議もこの情報をしっかり国民に伝えるよう努力してほしい。
 
 
喜ばない国民はいないし,誰もが期待し、どうしても必要なニュースなのだから。
 とにかく最高の贈り物だと思った。
 関係者に感謝し心より応援したい。

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年賀状

今年の年賀状のやり取りは今までになく特によかった。  

 出した年賀状のコメントは「地球と子ども」の2語は全員に共通に書かせてもらったが、一人ひとりを思い出し、その言葉の前後に言葉を入れ、一人ひとりと会話している感じでかけたような気がする。気持ちのいいものだ。  

 意外だったのは、頂いた年賀状を、1枚1枚をゆっくりゆっくり、やはり会話している時の感じで読めた。こんなに落ち着いて読んだのは初めてだった。なんか充実したいい時間で気持ちのいい余韻も残った。

  年賀状の中に、20年近く前の教え子から来た1枚も印象深かった。
「世の中せちがない。モズも満足に鳴けんかな‥‥」と言葉が添えられていた。当時6年生の男子、どちらかと言えば真面目でおとなしい子だと思っていた。 添えられた一言が私の今の心境とダブった。

 周囲の人や自然をしっかり感じ取っているのが特に嬉しい気持ちにしてくれた。
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よかったら  dozdozi も

昨年始めまで、パスワード dozidozi(検索)日記「今思う」書いていました。
良かったらどうぞ。今は、この「天まで届け」だけにしています。
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大衆学

大衆小説、大衆演劇、民謡や盆踊り等は大衆から生まれた大衆の文化といえる。貴族文化・武家文化・町人文化、また児童文化等もある階層から生まれ他に広がったもののようだ。

 学者によっての立場や視点の違いはあるものの、多くの学問は研究対象を一般化し全体化したものが多い。例えば教育学や心理学の対象に階層は関係しない。(実際には子どもの環境により
教育内容や教育方法は異なっているにもかかわらず。)

 大衆の定義は出来ないが、大雑把に言うと社会には支配的な少数の立場とそれに従って生活する多数の大衆がいる。これは独裁であろうと民主主義であろうと、資本主義であろうと社会主義であろうと同じ。しかも日本はじめどの国も、支配する人たちのグループは固定化しがちだ。支配階層と被支配階層では利害が一致するとは限らないし、実際は反対になることも珍しくない。

 話は飛ぶが、テレビのワイドショウやお笑いが文化だとすると、あの文化の担い手は誰だろうと考えると分らなくなる。
一見何の区別なく(皆一緒に)のようにもみえる。しかしそれは実際にはありえないのではないか。

 そう考えると学問として【大衆学】と言われるような学問があってもいいなと思う。統計や資料を基に(大衆)とはどういうものか?大衆の利害、大衆の行動、大衆の心などを学問の対象にする。犯罪心理学、帝王学、皇室教育、などと同様に。

 最近特に感じるのは、多くの庶民がテレビ情報丸呑みで。オーム返しかスピーカーのように語る人がやたら多い。この間も、赤提灯で飲んでいて2杯目のお酒をせがむ労務者風のおじいさんが、あたまのなかは(好景気)になっている。自分の財布を見ればいいだけなのだがそうはいかないようだ。「それはそれ、これはこれ」になっている。そのような取り違いはそのおじいさんに限らず、一般的で普通に見られる。

 大衆学と言う科学があれば,上記のような取り違いは

当たり前で上記のことも科学的な現象に違いない。大衆学を少し学べば、自分に気が付きやすくなる。今は上から下まで、他人の服を着て歩いているようだ。

いたるところ、違いを強調する割には、ごちゃ煮のように形がくずれ、味の区別が難しくなっている。【テレビや街も国会も】

どれを食べてもどこか味が似ており、ほしい味は、どこにもない。

 

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話を聞くときの顔が大変

 考えの違う人の話しを聞くときの顔が大変。
 年明けて2日目の朝、布団の中で考えた。
 自分も含め意見の異なる人の話を聞いている人の顔は重要な意味を持っているのだと思った。明らかに怒りを表したり、無視して話を聞かなかったりすることが多い。こういうときのいい顔は【悲しむ顔】ではないだろうか?
 それは話の裏に事実や現実がある。意見の違いは基本的には事実や現実の認識の違いにある。自らの正当性を信じるなら意見を異にする人の認識不足から生ずる結果としての現実の悲劇が思い浮かぶはず。またそのことに気が付かない者へ、その原因を探り憐れみも出るだろう。何故なら、己の認識不足の自覚を持っているだろうから。
 逆に単なる反発は言辞や自分の立場にこだわり、結果生ずる悲劇や現実に思いは行かず、認識できないものへの理解が出来ない。認識上は似たり寄ったりの証左ではないか。

  (慈悲)と言う言葉がある。思いやりの持てる大きな心、(非)も悲しみを共にする、ぐらいに思ってきた。今朝は、(慈悲)は見解を異にした人の話を、悲しむ感覚ではないかと思った。鳥瞰図のように、彼我の全景を見渡せる目と心ではないだろうか。行き詰まっている世の中では、あちこちで喧々諤々やっている。鳥のように高くから見る人が出てくるといい。

  喧々諤々やっている場合ではない。思い切って論議する場合は、理性と節度のある、【悲しむ顔】を伴った話し合いであってほしい。私もそうありたい。
 
 フセインの死刑執行も同様に言える。是非はともかく、勝ち誇ったように喜びをあらわにしたり、怒りでこぶしをあげる人の顔が気になる。論評する人の顔も気になる。その顔が混乱の今後を暗示する。例え執行が是としても喜べることではないはず。世界の宗教家やリーダーがコメントするときの目の奥をしっかり見届けたかった。

 (慈悲)の概念や感覚は東洋だけのもので西欧にもあるのかないのかは分らないが、今朝、始めてすごい言葉なのだと思った。
 この時代だから益々光ってくるように思った。
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