世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
在るには在るが
でも今日午後、ミュージカルを追っかけをしたご褒美か?打ち合わせに呼ばれてる。これは居酒屋と違って大人数で、ミュージカルの続きのような話し合い。所は国分寺。16:00より
ズレ?
自分がズレてると全てがズレて見えるものだが、いろんなものがズレて見える。
大好きだったオリンピックもテレビや新聞の報道振りには、ちょっと食傷気味。
連日の中小企業の倒産や出漁できないほど経済は困難に直面し、多くの国民があちこちで悲鳴を上げてる中で、世界の祭典とは言え、オリンピック一色にさえ見える報道にバランス感覚はどうした?
緊急経済対策等でメディアに登場する政治家、財界人、学者の言ってる事がどこか的外れに感じて仕方ない。
事、経済では、緊急な応急措置と今日を招いた経済や産業の体質改善に目を向けた基本的な対策が緊急に必要ではないのか?
どっちもおざなりにし、相変わらず従来の延長の経済対策。
エッらそうに、大言壮語するが、ドジがそう思うのだから、【それで、いいのだ!】
地方版に、(東京府中市が給食費未納の集金に自宅訪問)の記事があった。
学校の給食のおばさんや栄養士さんも集金に歩くという。 年間1000万円近くの未納があると言うが、家にけば子供がおり、子供の気持ちはどうなんだ!
この決定には教育委員会や校長なども関わっていたはず。 このことを教育的に考えただろうか?
いくつかのモラル的な例外はあるにせよ、未納者の平均収入は、取立てを決めたヒト(公務員)よりかなり厳しい現実問題があったのではないか? 少なくてもそこは考えてからにすべきだ。 やることが乱暴すぎる。メディアも一般の保護者も反応しないところが今日的な問題。 子供は言えるか!!
長い間学校現場にいた経験で言うと、【そんなバカな!】の一言である。
未納の原因をどれだけ把握してのことか。子供に配慮した集金方法も他にいくらだってあるはず。
どうしても納められない様な事情があった時、子供へどう言うのか?
子供からみれば、給食のおばさんも、栄養士さんも先生も校長先生もある意味同じ。
(戦後間もない世の中全体が極貧のころの話だが)小学校のころ、10円の集金を知っていても、親に言い出せなかった。その翌年、自分は喜んで養子に行った。
子供が親の財布の中を心配する家庭だって世の中にはある。 だから、それだけは止めてほしい。
経済大国日本、東京でも冠たる富裕地方自治体府中市の名が泣くではないか。
学校現場を経験した者として言えば、学校で捨てている紙類や、棚の中深く押し込まれ陽の目を見ることなく捨てられる印刷物等等等‥、(自分もその中にいたから他人事ではないが)学校の無駄遣の基準は家庭とは桁違い。(調べれば誰でも分る。) それを知っている者としては、言葉がない。
こんなのが、【ズレ】で済むのか!
ハズレてるのはだれだ!
来客歓迎
昨日の朝方、網戸の隙間から可愛いすずめが1羽、部屋の中に紛れ込んだ。
入ってきたすずめがびっくりし、あちこち飛び回り,時々素通しのガラスに口ばしをぶつけてる。
隣の部屋へも行ってみたが、やっぱり網戸で出られない。戻ってきて本棚の一番上から出口を探す。
せっかくの来客だから、もてなしてやろうと、テーブルや窓の桟にお米を撒いたりしたが、それどこころでないようで、キョロキョロしてる。
「焼き鳥にしないから大丈夫だよ!」と言いながらあちこちの網戸を開けて回ってるうちに、入ってきた網戸から,振り返ることもせず、すぐさま飛んでいった。
家へ帰って、どんな話をしていたか分らないけど、今日ぐらい御礼に来るかと待っているが、今のところ姿をみせない。
それはともかく、(勝手にだが)お近づきになった感じはするもんだ。
合理性
スピードや効率性など有効に機能したところも大いにあった。
しかし、現在経済始め社会の色々な分野で行き詰まり、崩れを見せてるのは行政に顕著に見られるが社会全体の縦割り、形式的分業、上意下達と言う従来のシステムによる現実との不合理が原因していると考えている。
例を挙げると身辺から国政や外交にたるまで大小数限りないが、(ここでは具体例は省く)お金がかかるわけでないから是非丁寧にチェックしたらいい。
この合理的か否かのチェックは言葉で言えば簡単だが組織や責任がからみ、難しい。
これは政治家が言う官僚や役人だけの問題ではなくでない政治家からメディア、我々国民に至るまで含む日本の文化の問題だと考えている。
唯、行きづまり、崩れかけてる事態は、日本の文化などと言ってられない所まで来ているから、端的に勇気が試されている。
世界も同じ。
今は昔パート2
今は昔
今は信じられないけど、40年前ヒトビトは平気でひどい事をやっていた。
地球の宝を競って盗掘しそれで得た富を誇っていた。
まるで、強盗団のようだが、警察も裁判官も牧師も先生もどの親も、文句を言う人はいなかった。それは当たり前で、自分が分け前をもらい、誰もが、分け前の分捕り合戦にうつつをぬかしていたのだから。
そんな競い合いが原因で、あちこちで奪った宝を燃やし、人を殺す戦争までしていた。
2008年なんか世界中、油や食べ物の値段が跳ね上がり、車があっても走れない、船はあっても魚を捕りに行く事もできない、飢餓死ぬ子供が沢山いるのに、取れたトウモロコシを油にして車を走らせたりもしていた。
学校の先生も、分け前を戴いているから、子供が将来よく稼ぐ?ように全国的にテストをして力を競わせてた。
それでは力不足だと言って、親は身銭を切って、それ専門の塾へ行って実力?をつけたりもした。
世界中が泥棒学校のようだったが、加古里子(泥棒学校の作者)のような笑える話ではなかった。
今は信じられないけど、その当時は誰もが真面目な顔をして頑張っていた。
何故なら命がけの仕事で、それで命を落とした人の数は計り知れず、供養の仕様もない。
これは「今は昔」の話だが。世界中がそうだったから凄いね!
そんな犠牲ががあったから今があるんだよ。
だから、先祖を敬いなさい!!
友達っていいもんだ。
5時間ばかり、北海道の旅行の土産話、最も盛り上がった話は、現在のへんてこな文化についてだった。
見てきた多くの文化論は政治や経済、特に人が生きていくための産業と切り離して語られるものが多かった。
食べずして成り立つわけがない。
現在の生きていく基盤(産業)を踏まえた文化の話が聞きたい。そんな本はないかなー? 話はそこまで進んだが、なかなか思いつかなかった。
こんな話が出来る友達がいることが嬉しい。
補足だが、彼とは35年にも及ぶ公私を超えて付きあってきた。
お互いに影響されたとは思うが、彼の家族の事までは考えてこんなかった。
35年もたって(ちょっとすると彼の家族に迷惑をかけてはいなかったかな?)
と、初めて頭をかすめた。 そんな事って多いんだろうなー。
世界の総生産=資源×人手
午前中、病院の待合室で考えていた。総生産をGDP、資源をS、人手をHとすると、GDP=S×H出でないかと仮定的に考えた。GDPは地球に埋蔵されたものもあるし、再生産されるものや人が生み育てたものもある.Hは人為の全てで、労働や技術や資本も含む。こんな掛け算の式にしてみた。SやHは単なる無限の項として考えられてきたが、現在生産の主役の地球資源は一方的に減っていく。だから、世界のGDPの成長路線は論理的に時間限定でしか成り立たたない。
今もまだ、その前提がどこからも聞こえないし、加味されているようには思えない。
本気になれないうたかたの(泡沫の)夢
賑やかだったり、どれだけ目立っていても、現在の異常な産業構造や、その経済成長を前提にした話や、黙過した物を見ると、それが芸術や文化の分野であっても、どうしてもその気になれない。テレビや新聞、書籍の紹介やオリンピック報道もその気になれないものが多い。所詮、うたかたの夢と先ず映ってしまう。
畑の草花や、庭に来るすずめや、今夜でも見られそうな月のクレーター、家族や飲み屋での、でまかせのおしゃべりでも、現実感を感じるのに、何故か、上記の中に現実感を見出すのは難しく、よっぽど気を使う。
真昼間から、当たり前のことが当たり前でないうたかた(泡沫)に、身を任せるほど、自分ではボケてはいないような気でいるが
本当のところは自分では分らない。
とりあえず、今日は、昼前はすずめと付き合い、午後は星座(囲碁)の研究、夜、晴れていれば月を見る。そして‥‥時々テレビや新聞でうたかたの夢を見る。
今朝の朝日新聞の社説【常識を打ち砕いた9秒69】【サブプライムー 脱バブルで成長目指せ】の表題で社説2本を並べる感覚がどうしてうたかたでないと言えるだろう。
「平家物語」や「千夜一夜物語」を今も地でやっていないか?
‥‥と、言い切ろうとすると、社説のそばにその2倍もあるスペースを使い
「水俣が背負った近代化の罪ー『人様』思いやる心取り戻して」 石牟礼道子(81)の文が載る。
かつて(50年以上も前)、「よいわんわ!ややこしくて!ややこしくて!わたしどうしましょ!」と腰のところで両手をばたつかせ走り回った、大阪漫才の花菱アチャコを思い出しちゃった。
すずめは、のりが好き?
昨日娘から「すずめは、柔らかいのが好きらしい。」と聞いた。
そう言えば、舌きりすずめも、のりを食べていた。
今朝、早速釜のご飯を冷蔵庫で冷やし、エサ台にのっけてあげた。来ること来ること!
ご飯をくわえて逃げるように飛び立つのやら、頭をくっつけっるように車座になり口ばしにご飯をくっつけ空を見ながらパクパクやってたりしているのを見ると、娘の言うとおりかなと思った。
それにしても、すずめはずいぶんなれてきた。初めのころは近所のドアの開け閉めするちょっとした音や、道に人の気配を感じてもすぐ逃げた。あのころは、部屋の中から見るときもガラス窓に映ったのを見たり、見ない振りして横目で見たりしたもんだ。
今は,天敵の猫の気配以外は、向かいのおじさんが機械を使って洗車していても,そばの道を車が通っても、殆ど逃げない。
そんなのを見ていると、
「ここへ来て、遊べやすずめ、つべこべ言わぬから。」つい、そんな気持ちになる。
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