専門

専門は専門化が進むほど専門の幅は狭まる。
 専門家の集まりは各専門の蛸壺から出てきた人の集りとも言えそうだ。
  縦割り社会の中央集権的な組織にあって、補助的に専門家を集めて諮問するが、多くは  機能ししない(出来ない)。
 蛸壺から出てきた専門家を集めても全体は描けない。継ぎ足しは出来ても、現実離れするのはまとめられる能力を持った専門家が、元々いないからである。
 この社会にあっては全体を見てまとめられる専門家が必要だが、それを養成する専門機関はない。分業による縦割り社会では当たり前かもしれない。
 物事は全体的な関係で生ずるのであって部分的に切り取った専門分野のなかで生起する物事は存在しない。
 行き詰まりは現実を離れたリードによって起きる。 それが、今。
 
 
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やっぱり!

 あそこで子供が泣いてるよ!
  こけて痛いと泣いてるよ
 あそこでじいさん口閉ざしてるよ!
  諦めちゃったと口閉ざしているよ
   ホラ、イタイのイタイの飛んでゆけ
    そうか、そんなら傍にいてあげる
    だろう 
   やっぱり
  子供がじいさんと遊んでた
     じいさんが子供と遊んでた
      
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2重の難しさ

日記の指導では「ありのまま、くわしく」をモットーにしてきた。自然の認識が人為的な認識に勝ると考えていたからである。
 しかし今、色んな形で耳目に蓋をしているのを見ると、我々は(ありのまま)を認識する困難さが2重になった思った。
 一つは 普通の状態での社会的な囚われ。
 もう一つは、(何かをする事によって)自らが自らの認識に蓋をする。
  (ありのまま)を知るのはさらに難しくなったようだ。
  携帯、ゲーム、新聞、テレビ、お酒、碁(碁病気) ‥自分も無関係でない。
  
  
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いいのになー

 ‥行き詰まっているのに、目や耳を塞いであらぬ方向へ歩む‥
  京都でゆったりしてきたせいか、帰りの新幹線で(深い眼差しとやさしい目、落ち着いた静かな身のこなし)の仏像を思い浮かべ、はー とついため息。誰だって、(いい)と思うよなー‥‥
    
   
  
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携帯電話

京都へ行ってきたが、どこへ行っても携帯電話を使う人が目に付く。最近は中年の姿も珍しくない。
 地球や世界の経済がおかしくなっているのにだいじょうぶかなー。
 乗っている新幹線や電車のお客さんを見ていると、携帯をやっていいる人だけでなく殆どの人が、どこかに目や耳を向け、目や耳に何かで蓋をしている感じがした。
 立ち止まって周囲を感じ黙って考える時間があってもいいのに。
 状況や先行きが心配なだけに、(自分も同じだとは思うが)蓋をしているように見える人が気になった。
 安全とは言えない中では、生の情報をキャッチして対処しなきゃ!
 
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明日、京都へ

視野を狭め目先の利に走る大人達の中にあって、子供や自然は痛め傷つくばかりで、先は暗い。
 
 それでも、傷ついたものの中から、新しい小さな芽が吹き出ているようにも見える。

  傷ついた子供が畑仕事をし、傷ついた大人が言葉を交わす。
   ウメの木は枝の切り口から花さかせ、どこかでウグイス鳴く練習。
   
    台風一過、サクラ咲く。
    雨は降っても京都は京都。
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なぜ、なぜ、なぜ?

不況の原因をどう考えているのか分らない。
 世界、とりわけ日本の経済の落ち込みは目立っているのに‥
  景気対策といえば与野党や世論(マスコミ)とも金融か財政出動、国の赤字は出費の切り詰めか増税かの議論に終始する日本‥世界も大して変わらない。
   経済が行き詰まったら、 稼ぎ方(産業構造)を見直したらいいのに
  産業構造を見直すこともせず、マスコミを軸に与野党は対決と内紛、マスコミはそれをまた煽る。 
政治の行き詰まりや混乱の域を超えた社会の崩れなのか?
 
  これが行過ぎた分業の結果だとすると、元に戻るのは大変だ。
  全体を見ているリーダーがいないのだろうか?
 (条理より分業を優先して現実政治を支配しているマスコミを正し、全体を見回すのを勤めとしたリーダーが出てくるといいのだが‥)
 
  
  
  
  
 
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自然を視座に

我々は間違いなく自然の球体に一生物として棲んでいるのだから、周囲の自然がどうかを視座にし、それを捉える感覚の敏感さが求められる。(庭に来るスズメと同じ)
 しかし、人間中心の人為的な社会にあって、人は自然から遠ざけられ、分っていてもつい自然への視座を狭め感覚を弱めかねない。 
 目の前の出来事や、入ってくる情報の一つ一つが、自然を視座にした絵の中にすっきりした感じで真っ直ぐ収まるといいのに、と思うが、変化する自然の状況に対応した視座を持つのは難しくなかなか収まらない。

 
 
 
 
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菜園での共同作業

先日、畑仕事を手伝った。
 友達と4人で耕運機で耕し、ジャガイモを植え、ニンジンの種を蒔き上にネットをかけ、エンドウを支える棒を差した。
 耕運機で耕し草をとる。ネットの向こうとこっちを持ってピンと張る。
 一つの作業を何人か一緒で作業することが多かった。
 空気や周りの景色が良かったっせいか、力を合わせて作業をするのが、何か新鮮で久しぶりの感じがした。
 
  
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行き先の情報を持たずに水先案内するマスコミ

人間やマスメディアが自ら作った社会について行けないでいる。
 政治や経済の混乱は自明だが、水先案内すべき情報機関(マスコミ)がさらにそれを攪拌しているかのようだ。
 政治は一定の制度上の責任を伴うが、マスコミは(報道の自由)の名で制度上の責任もない。
 しかし、マスコミは自からを民意や世論の名で、選挙をしいては政治をもコントロールしている。
 今朝の朝日新聞がその事を端的に示していた。
 1面トップは 内閣支持率下落32パーセント、政治とカネ 56パーセント重視 政党支持は自民も低迷15パーセント(本社世論調査 )
 少なくてもこの半年間の朝日新聞やマスコミのキャンペーン報道の成果を言っているに過ぎない。
 紙面の多くを使い政治の党派的で断片的な記事で批判している。
 これと関連した(新たな政治の芽を)と題した社説にはその中味らしいものが何ら見当たらなかった。
結局、朝日新聞は 政局の中で云々してもどこへ向かえばいいかの情報を何ら持っていない。
 一般的に、我々は、マスコミを水先案内として利用しそれで行動している。
 それにしても、マスコミに対して不和雷同の民意と国民世論!
 
 

 
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