悔いを超え キリマンジャロをめざす旅 四手を手折て 背に差しゆかん
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山崎豊子
だいたいそうなんだが「亭主元気で留守が良い」(裏
返せば、役に立たない)というわけで彼女が映画「沈
まぬ太陽」を見にゆけと小遣いを手渡す。もともと、
この小説は全巻購入したが購読すること処分したもの
だから悔いが残っていたから、後ろめたい気分でビバ
シティ彦根に出かける。
前作の『大地の子』を書きあげてから、主人公の
陸一心さんが私の胸の中に座ってしまって何も考
えられなくなっていました。学生のころからキリ
マンジャロを見ながら死にたいというロマンチッ
クな気持ちを持っていた私は、自分の気持ちをな
んとか動かさなければとアフリカへ行くことにし
たのです。私は未知の国に行くときは、時間をム
ダにしないように、その国をよく知っている人を
探すことにしています。そのとき後に小説の主人
公の恩地元さんの原型ともいうべき人に出会いま
した。
ナイロビの空港に降りたつと、古武士のような東
洋人が立っていて、それが「恩地さん」でした。
翌日から四輪駆動の自動車でサバンナを案内して
もらい、動物の生態やアフリカの歴史を聞きまし
た。穏やかで何をたずねても造けいが深く、ご自
身の見識を持っておられ、単なるアフリカ通では
ないことが感じられました。あれこれお聞きして
いると、元航空会社の社員としての経歴を、ポツ
リポツリと話してくださいました。私は、アフリ
カの自然を見にきたのに、アフリカの大地で今の
日本ではなかなか会うことができない日本人に出
会えたと感慨を持って帰ってきました。
それからあらためて、あなたをモデルに小説を書
かせていただきたいとお願いにいったのですが、
最初は「私の人生は、他人にわかるはずがありま
せんので、ご辞退します」と拒絶されました。そ
れでも何度かお願いし了解を得て小説に書かせて
いただきました。取材を始めますと、まさに現代
の「流刑の徒」だと思いました。航空会社の労働
組合委員長として、「空の安全」を守るために利
益優先の会社とたたかい懲罰人事で10年間も中
東、アフリカへ左遷させられ、国内の組合員も一
般社員から隔離され、差別される。名前を「恩地
元」としたのは、大地の恩を知り、物事の始めを
大切にするという意味を込めたものです。
インタビュー「沈まぬ太陽を心に持って」
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小倉寛太郎
国民航空(モデルは日本航空)社員で同社の労働組合
委員長を務めた主人公、恩地元(実在の日本航空元社
員・小倉寛太郎がモデル)が受けた不条理な内情を描
き、人間の真実を描いた作品。フラッグ・キャリアの
腐敗と、単独機の事故として史上最悪の死者を出した
日航機墜落事故を主題に、人の生命に直結する航空会
社の社会倫理を表現したとする作品である。相変わら
ず一本調子の抑揚演技?の主人公渡辺謙扮する恩地。
映画では御巣鷹山の遺族対応役も演じているが、彼は
関与していない。作者の山崎豊子はインタビューに答
えエピソードを語る。
そうですね。奥様にいちばんつらかったことは何
ですかとお聞きしますと「子どもに、どうしてう
ちのお父さんは帰らないの?と聞かれて、言いき
かすのがたいへんでした」と答えられました。奥
様は、子どもさんに「お父さんにはお仕事がある。
それはお父さんにしかできないお仕事なのよ」と
言ってきかせていたそうです。それに、子どもも
どこからか聞いてくるのですね。「左遷ってなに
?」と父親に聞きます。「お父さんは、何も恥ず
かしいことはしていない。だけど一生懸命いいこ
とをしてもうまくいかない場合がある。それはお
前が大きくなったときにわかるよ」と話したそう
です。でも「やっぱり、つらかった。自分の節を
通すために妻子をここまで犠牲にしていいのか」
とつぶやかれました。
テヘランの空港で日本へ帰る奥様が、二人の子ど
もの手を引いて搭乗機に向かっていきます。彼は、
アフリカへ向かう飛行機に乗る。そのときに、「
声をかけたけれど、妻は振り返らなかった。その
後ろ姿を見ながら泣きました」と話してください
ました。私はこの場面を小説に書くとき、泣きな
がら書きました。奥様に会って、「なぜ振り返ら
なかったのですか」と聞きました。「振り返った
ら崩れます」と奥様はおっしゃいました。会社は
こんなことまでしていいのでしょうか。私は、こ
のことを知って、航空会社がどんなに取材を妨害
したり、誹謗中傷してこようと、最後までこの作
品を書きあげなければいけないと思いました。
あの会社は、あれだけのことをして、反省もしな
いで「組合側にたった一方的なでっちあげの小説
だ」という怪文書を流し、一部のマスコミが掲載
しています。どこまでも低次元な会社で怒りを通
りこして今はあきれはてています。
インタビュー「沈まぬ太陽を心に持って」
小倉寛太郎氏コレクション展
【JALの歴史的背景】
1951年(昭和26年)8月1日
第二次世界大戦後初の日本における民間航空会社とし
て日本航空が設立される。
1953年(昭和28年)10月1日
日本航空株式会社法に基づき、旧会社の権利及び義務
を承継した特殊会社「日本航空株式会社」を設立。
1954年(昭和29年)2月2日
初の国際線となる東京-ウェーキ-ホノルル-サンフラン
シスコ線をダグラスDC-6型機により開設。
1960年(昭和35年)8月12日
初のジェット機となるダグラスDC-8-32型機1番機「FUJI」
号が東京-ホノルル-サンフランシスコ線に就航。
1964年(昭和39年)4月15日
運輸省(当時)による日東航空と富士航空、北日本航
空の政策合併により、日本国内航空(JDA)を設立。
1967年(昭和42年)3月6日
世界一周線西回り線(東京-香港-バンコク-ニューデ
リー-テヘラン-カイロ-ローマ-フランクフルトまたは
パリ-ロンドン-ニューヨーク-サンフランシスコ-ホノ
ルル-東京)開設。翌日には東回り1番機が出発。
1968年 (昭和43年)4月1日
アメリカ、ワシントン州のモーゼスレイクに運航乗員
訓練センターを開設。
1971年(昭和46年)5月15日
日本国内航空(JDA)及び東亜航空(TAW)が合併し、東亜
国内航空(TDA)となる。
1974年(昭和49年)4月21日
日本政府による中華民国との断交処置に対する中華民
国当局の日華路線停止措置により日華路線を休止する
とともに、台北FIR内の飛行も中止。
1976年(昭和51)2月6日
米国でロッキード事件発覚
1978年(昭和53年)5月21日
前日の新東京国際空港(現成田国際空港)開港を受け、
開港後の初便であるロサンゼルス発のダグラスDC-8貨
物機が到着。国際線を東京国際空港(羽田空港)から
新東京国際空港に完全移管。
1985年(昭和60年) 8月12日 日航ジャンボ機墜落事故
1985年(昭和60年)12月28日 第2次中曽根内閣(2次改造)
1991年(平成3年)1月10日
ヤマト運輸や日本通運などとともに国内貨物航空会社
日本ユニバーサル航空を設立。
1992年(平成4年)12月6日
新東京国際空港(現成田国際空港)第2ターミナルの
供用開始を受け、使用ターミナル及びオペレイション
センターを第一ターミナル北ウイングから第2ターミナ
ルに移管。
1995年(平成7年)2月14日
契約制客室乗務員の自社採用実施を発表。
2002年(平成14年)7月4日
貨物航空連合のWOWに加盟。
2002年(平成14年)10月2日
日本エアシステム(後の日本航空ジャパン)と経営統
合し、同社との株式移転により持株会社株式会社日本
航空システム(後の株式会社日本航空)を設立、日本
エアシステムと共にその完全子会社となる。
2004年(平成16年)4月1日
日本航空、日本エアシステムを、それぞれ日本航空イ
ンターナショナル、日本航空ジャパンと商号変更。同
時に旧日本エアシステムの貨物事業が日本航空インタ
ーナショナルに全面移管される。
2007年(平成19年)4月1日
日本航空インターナショナル、日本アジア航空、JAL
ウェイズ、JALエクスプレス、ジェイ・エア、日本ト
ランスオーシャン航空が『ワンワールド』に正式加盟・
サービス開始。『ワンワールド』塗装の飛行機を運航。
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山崎豊子の小説はスケールがでかい。「白い巨塔」「
華麗なる一族」「不毛地帯」とそして「沈まぬ太陽」。
山陽特殊鋼、ロッキード事件、日本航空、そのなかで
も瀬島龍三のはたす役割が印象に残る。映画では、こ
の瀬島龍三と両極の思想軸(「国家主義」 vs.「民主主
義」)として、石坂浩二扮する国見正之国民航空会長と
して登場するのが、鐘紡から労務対策の手腕を買われ
て就任した伊藤淳二副会長である。
今回の作品には、労働組合でがんばられている方
からお手紙をたくさんいただきました。その中の
一つで、涙が出るぐらいうれしかったのは、「『
沈まぬ太陽』を読む前と後で私は確かに変わった。
何が変わったかというと、勇気を持つことができ
た」と書いていただいたことです(中略)一方、
会社といっしょになって、まともな労働組合をつ
ぶそうとする第二組合の方は、私の頭では考えら
れなかった組合でした。組合幹部が組合員を〝搾
取〟するなんて考えられませんでした。私は三池
炭坑でのたたかいなどで労働組合は労働者のため
にたたかうものだと思っていましたからね。そう
いう意味でも、労働者のために、まともな労働組
合にがんばっていただきたいと思います。
私の座右の銘としているゲーテの言葉をおくりま
す。「金銭を失うこと。それはまた働いて蓄えれ
ばよい。名誉を失うこと。名誉を挽回すれば、世
の人は見直してくれるであろう。勇気を失うこと。
それはこの世に生まれてこなかった方がよかった
であろう」なんときびしい言葉でしょうか。どん
なに正しいことを考えても、それを実践に移すの
は勇気なんです。この言葉を互いに肝に銘じてい
きましょう。たいへんな時代ですが、沈まぬ太陽
を心に持って、ただすべきことはただして国の行
政をよくしていってください。
インタビュー「沈まぬ太陽を心に持って」
労働者運動にかかわったことのあるものとして、痛い
程分かる言葉である。歴史的背景に冷戦構造と米ソ代
理戦争が続いた時代、<経営>の背景も理解しているつ
もりだが、巨大な企業組織を運営しているには、何と
も器量の小さい経営陣ではなかったのかと映画を見終
えての感想だ。<東京大学法学部>を卒業しても、「官
僚主義」という<保身呪縛><自家中毒>に陥って「自分
を見失う」ことのないようにと、是非、息子達に観賞
させたい映画だ。
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シデ(四手)は、カバノキ科クマシデ属の落葉高木の
総称。木は比較的小さく、材木は比較的硬い。北半球
の温暖な気候で育つ。東アジア、とりわけ中国に多い。
ヨーロッパで2種北アメリカ東部で1種が知られてい
る。「青年は荒野をめざす」。小説と歌だ。大還暦は
永すぎるねと自戒を込め詠う。家具材などに利用され
る「シデ」。花言葉は「装飾」。
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