<金曜は本の紹介>
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この本は、1918年~1920年頃、世界で第一次大戦の4倍(約4000万人死亡。当時の人口は約20億人)、日本国内では関東大震災の5倍近く(約45万人死亡。当時の日本の人口は約5600万人)の人名を奪ったスペイン・インフルエンザを日本で始めて論じた著作です。特に当時の新聞や統計等から生々しい状況を知ることができます。
以下は、この本のポイントです。当時のスペイン・インフルエンザの状況がよく分かる資料的価値の高い本だと思います。お勧めです!!
・インフルエンザ・ウイルスは、トリ(渡り鳥、カモ・アヒル等の水禽類、ニワトリ等)、ブタ(厳密には哺乳類で馬やフェレット)、ヒトの細胞を宿主にする。ウイルスは他の動物の生きている細胞にとりつき、その細胞を破壊して増殖する。ウイルスの毒性は、フグやキノコ、あるいはサリンのような毒ではなく、強い増殖力で細胞、とくに呼吸器系の細胞を破壊し、死に追いやるのと同時に、他に伝染することによって毒となる。ウイルスは「変異」することによって、毒性の強いものが現れる。
・インフルエンザ・ウイルスは、直径100ナノメートル(1ミリの1万分の1)程度なので、肉眼では見えず、光学顕微鏡でもみえない。1930年代に開発された電子顕微鏡によってみることができるようになる。電子顕微鏡に映ったインフルエンザ・ウイルスは表面に2種類のタンパク突起を持ち、内部に8つのRNA遺伝子の分節を持っている。
・古い人体の組織片から、スペイン・インフルエンザ・ウイルスが分離されるようになったのは1990年代のことであり、流行後70年以上経てからであった。したがって、スペイン・インフルエンザは流行当時は、誰もその病原体について正確な知識、予防や治療の方法について知らなかった。
・ヒト・インフルエンザ・ウイルスには3種類のHタンパクと2種類のNタンパクをもつウイルスが見られ、従って6種類のウイルスがあることになり、H1N1型はスペイン・インフルエンザ・ウイルスであり、H3N2型は1968年流行の香港インフルエンザ・ウイルスであり、H5N1型は2005年以降世界各地で流行中のトリ・インフルエンザ・ウイルスである。
・インフルエンザ・ウイルスが変異を起こしワクチンなどの効果を低下させてしまう理由は、その遺伝子が通常の生物のDNAではなく、RNAのためで、RNAはDNAと比べて1億倍の速さで変異するといわれている。
・スペイン・インフルエンザの発祥地はスペインではない。当時第一次世界大戦中で、交戦中のヨーロッパの国が自国でインフルエンザが流行していると発表しなかったため、中立国であったスペインの流行が世界に知れ渡ってしまったとのこと。ヨーロッパでは何でも悪いことはスペインのせいにするという悪弊も手伝ったとのこと。
・スペイン・インフルエンザは、第一次世界大戦の西部戦線で、ドイツやフランス、イギリス、アメリカ軍で猛威を奮い影響を与える。
・日本では1918年春の「春の先触れ」の後、本格的には1918年10月に始まる「前流行」として、さらに1919年12月に始まる「後流行」として2度スペイン・インフルエンザに襲われる。日本(内地)での「前流行」のインフルエンザ死亡者は260,647人、「後流行」は186,673人で合計453,152人と推定される。当時の人口が約5600万人なので、死亡率は約0.8%である。なお感染した数は「前流行」では約2116万人、「後流行」では約25万人とのこと。「前流行」は感染者数は多いが死亡率は低く、「後流行」は感染者数は少ないが死亡率が高かったとのこと。
・京阪神と西日本におけるスペイン・インフルエンザ死亡率が高く、その人口数を減少させたが、他の地方ではそれほどでもなかった。全国では、日本の人口を減少させるものではなかった。
・甚大な人的損失をもたらしたスペイン・インフルエンザがなぜ忘れられたかの理由は以下の通りとのこと。(アメリカ)
1 第一次世界大戦に対する関心が、スペイン・インフルエンザより勝っていた。
2 スペイン・インフルエンザによる死亡率は、高いとはいえなかった。
3 スペイン・インフルエンザは突然やってきて、人びとをなぎ倒しはしたが、あっという間に去り、戻ってこなかった。
4 スペイン・インフルエンザは、超有名人な人物の命を奪わなかった。
<目次>
序章 ”忘れられた”史上最悪のインフルエンザ
第1章 スペイン・インフルエンザとウイルス
なぜ「スペイン・インフルエンザ」か?
インフルエンザ・ウイルスの構造と種類
ウイルス感染・増殖のしくみ
ウイルス発見をめぐるドラマ
ワクチンも「タミフル」も万能ではない
第2章 インフルエンザ発生ー1918(大正7)年春-夏
3月 アメリカ
4月-7月 日本
5月-6月 スペイン
7月-8月 西部戦線
「先触れ」は何だったのか?
第3章 変異した新型ウイルスの襲来-1918(大正7)年8月末以後
アメリカ
イギリス
フランス
補遺
第4章 前流行-大正7(1918)年秋-大正8(1919)年春
本格的流行始まる
九州地方
中国・四国地方
近畿地方
中部地方
関東地方
北海道・奥羽地方
小括
第5章 後流行-大正8(1919)年春-大正9(1920)年春
後流行は別種のインフルエンザか?
九州地方
中国・四国地方
近畿地方
中部地方
関東地方
北海道・奥羽地方
小括
第6章 統計の語るインフルエンザの猖獗
国内の罹患者数と死亡者数
全国の状況
地方ごとの状況
第7章 インフルエンザと軍隊
「矢矧」事件
海外におけるインフルエンザと軍隊
国内におけるインフルエンザと軍隊
小括
第8章 国内における流行の諸相
神奈川県
三井物産
三菱各社
東京市電気局
大角力協会
慶應義塾大学
帝国学士院
文芸界
日記にみる流行
第9章 外地における流行
樺太
朝鮮
関東州
台湾
小括
終章 総括・対策・教訓
総括
対策
教訓
あとがき
資料1 五味伊次郎の見聞記
資料2 軍艦「矢矧」の日誌
新聞一覧
図表一覧
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<今日の独り言>
2歳と1ヶ月の息子は、階段を登るのがうまくなり、今では交互に足を動かして上ることができるようになりました。しかし3階に到達するころには「ウゥッー!、ウゥッー!」と掛声をして登り、苦しそうです^_^;)
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・インフルエンザ・ウイルスは、トリ(渡り鳥、カモ・アヒル等の水禽類、ニワトリ等)、ブタ(厳密には哺乳類で馬やフェレット)、ヒトの細胞を宿主にする。ウイルスは他の動物の生きている細胞にとりつき、その細胞を破壊して増殖する。ウイルスの毒性は、フグやキノコ、あるいはサリンのような毒ではなく、強い増殖力で細胞、とくに呼吸器系の細胞を破壊し、死に追いやるのと同時に、他に伝染することによって毒となる。ウイルスは「変異」することによって、毒性の強いものが現れる。
・インフルエンザ・ウイルスは、直径100ナノメートル(1ミリの1万分の1)程度なので、肉眼では見えず、光学顕微鏡でもみえない。1930年代に開発された電子顕微鏡によってみることができるようになる。電子顕微鏡に映ったインフルエンザ・ウイルスは表面に2種類のタンパク突起を持ち、内部に8つのRNA遺伝子の分節を持っている。
・古い人体の組織片から、スペイン・インフルエンザ・ウイルスが分離されるようになったのは1990年代のことであり、流行後70年以上経てからであった。したがって、スペイン・インフルエンザは流行当時は、誰もその病原体について正確な知識、予防や治療の方法について知らなかった。
・ヒト・インフルエンザ・ウイルスには3種類のHタンパクと2種類のNタンパクをもつウイルスが見られ、従って6種類のウイルスがあることになり、H1N1型はスペイン・インフルエンザ・ウイルスであり、H3N2型は1968年流行の香港インフルエンザ・ウイルスであり、H5N1型は2005年以降世界各地で流行中のトリ・インフルエンザ・ウイルスである。
・インフルエンザ・ウイルスが変異を起こしワクチンなどの効果を低下させてしまう理由は、その遺伝子が通常の生物のDNAではなく、RNAのためで、RNAはDNAと比べて1億倍の速さで変異するといわれている。
・スペイン・インフルエンザの発祥地はスペインではない。当時第一次世界大戦中で、交戦中のヨーロッパの国が自国でインフルエンザが流行していると発表しなかったため、中立国であったスペインの流行が世界に知れ渡ってしまったとのこと。ヨーロッパでは何でも悪いことはスペインのせいにするという悪弊も手伝ったとのこと。
・スペイン・インフルエンザは、第一次世界大戦の西部戦線で、ドイツやフランス、イギリス、アメリカ軍で猛威を奮い影響を与える。
・日本では1918年春の「春の先触れ」の後、本格的には1918年10月に始まる「前流行」として、さらに1919年12月に始まる「後流行」として2度スペイン・インフルエンザに襲われる。日本(内地)での「前流行」のインフルエンザ死亡者は260,647人、「後流行」は186,673人で合計453,152人と推定される。当時の人口が約5600万人なので、死亡率は約0.8%である。なお感染した数は「前流行」では約2116万人、「後流行」では約25万人とのこと。「前流行」は感染者数は多いが死亡率は低く、「後流行」は感染者数は少ないが死亡率が高かったとのこと。
・京阪神と西日本におけるスペイン・インフルエンザ死亡率が高く、その人口数を減少させたが、他の地方ではそれほどでもなかった。全国では、日本の人口を減少させるものではなかった。
・甚大な人的損失をもたらしたスペイン・インフルエンザがなぜ忘れられたかの理由は以下の通りとのこと。(アメリカ)
1 第一次世界大戦に対する関心が、スペイン・インフルエンザより勝っていた。
2 スペイン・インフルエンザによる死亡率は、高いとはいえなかった。
3 スペイン・インフルエンザは突然やってきて、人びとをなぎ倒しはしたが、あっという間に去り、戻ってこなかった。
4 スペイン・インフルエンザは、超有名人な人物の命を奪わなかった。
<目次>
序章 ”忘れられた”史上最悪のインフルエンザ
第1章 スペイン・インフルエンザとウイルス
なぜ「スペイン・インフルエンザ」か?
インフルエンザ・ウイルスの構造と種類
ウイルス感染・増殖のしくみ
ウイルス発見をめぐるドラマ
ワクチンも「タミフル」も万能ではない
第2章 インフルエンザ発生ー1918(大正7)年春-夏
3月 アメリカ
4月-7月 日本
5月-6月 スペイン
7月-8月 西部戦線
「先触れ」は何だったのか?
第3章 変異した新型ウイルスの襲来-1918(大正7)年8月末以後
アメリカ
イギリス
フランス
補遺
第4章 前流行-大正7(1918)年秋-大正8(1919)年春
本格的流行始まる
九州地方
中国・四国地方
近畿地方
中部地方
関東地方
北海道・奥羽地方
小括
第5章 後流行-大正8(1919)年春-大正9(1920)年春
後流行は別種のインフルエンザか?
九州地方
中国・四国地方
近畿地方
中部地方
関東地方
北海道・奥羽地方
小括
第6章 統計の語るインフルエンザの猖獗
国内の罹患者数と死亡者数
全国の状況
地方ごとの状況
第7章 インフルエンザと軍隊
「矢矧」事件
海外におけるインフルエンザと軍隊
国内におけるインフルエンザと軍隊
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神奈川県
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三菱各社
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文芸界
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第9章 外地における流行
樺太
朝鮮
関東州
台湾
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終章 総括・対策・教訓
総括
対策
教訓
あとがき
資料1 五味伊次郎の見聞記
資料2 軍艦「矢矧」の日誌
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2歳と1ヶ月の息子は、階段を登るのがうまくなり、今では交互に足を動かして上ることができるようになりました。しかし3階に到達するころには「ウゥッー!、ウゥッー!」と掛声をして登り、苦しそうです^_^;)