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東海道五十三次 街道をゆく(品川宿~川崎宿)泪橋・鈴ヶ森刑場跡編

2015年06月01日 01時00分00秒 | イベント・外出
 阪急交通社が企画する「東海道五十三次 街道をゆく」の第2回目の品川宿~川崎宿に参加したのですが、今回は前回の品川橋・品川寺編に引き続き泪橋・鈴ヶ森刑場跡編を紹介したいと思います。

 旧東海道のこの品川~川崎の辺りは、現在ではすっかり埋め立てられてビルが乱立しているので、海を見ることはできませんが、江戸時代には道沿いに美しい海を見ることができたようです。
以下の写真の高いビルの辺りも当時は海だったようです。


↑当時海だったビル

「江戸前」という言葉がありますが、これは「新鮮」という意味として使われたようです。
現在は「江戸前」というと、寿司を思い浮かべるかと思いますが、当時は「ウナギ」のことを指したようです。
たとえば、この品川の辺りでウナギが獲れれば、江戸の近くなので「江戸前」と呼ばれたようです。

道の右側に、岩倉具視の石柱がありました。
日本で初めて国葬となった方のようです。
この辺りは「鮫洲」と呼ばれる地名ですが、地名の由来は、鮫の中から仏様が出て来たからという説や、「砂水(すなみず)」から「さめず」に変わったという説もあるようです。


↑岩倉具視の石柱

 それから、「吉田屋」という蕎麦屋が道の右側にありましたが、このお店は江戸時代から続く老舗のようです。
このお店の蕎麦は美味しいようで、繁盛して、建物も立派ですね。
ガイドの方も絶賛していました。
旧東海道の午後歩いた場所にも「吉田屋」の支店がありましたね。


↑吉田屋

 それから道の右側に、坂本龍馬像の案内がありました。
当時は、この辺りに土佐藩邸があったようです。
外様大名なので、結構江戸から遠いですね。
「竜馬が行く」を愛読した自分にとっては、感慨深い場所です。
ペリー来航の頃ですね。


↑坂本龍馬像の案内

それから「泪橋(涙橋)」がありました。
 この先に鈴ヶ森刑場が設けられましたが、そこで処刑される罪人は裸馬に乗せられて江戸から護送され、この橋で密かに見送りに来た親族と涙を流しながら別れたようです。
そのため「涙橋」と呼ばれるようです。
ちなみにその他の刑場の近くにも同じように「涙橋」と呼ばれる橋はあるようです。


↑涙橋の説明


↑涙橋

それから品川区民公園でトイレ休憩となりました。
近くには大井競馬場やしながわ水族館があります。


↑地図

品川区民公園の中には、大きな鯨の絵がありましたね。
寛政10年(1798年)に、一頭の大きな鯨が迷い込んで来たようで、やっとの思いで漁師たちが捕らえたようです。
将軍もご覧になり、大勢の見物人でにぎわったようです。
鯨の骨は利田神社の境内に埋められ、鯨塚となっているようですね。


↑鯨の絵


↑鯨の説明

そして、鈴ヶ森刑場に到着しました。
5月に東京の歌舞伎座の夜の部で歌舞伎を鑑賞したのですが、その時の一つの話が幕府に対して反乱しようとして事前に捕まった丸橋忠也(まるばしちゅうや)の槍使いを題材としたものでした。
由井正雪の乱ですね。

その丸橋忠也が処刑となった場所がこの鈴ヶ森刑場だったとのことです。
しかも、最初の処刑がこの丸橋忠也だったとのこと。
その磔台が残っていました。

また、女性の罪人の場合は焼殺だったようです。
歌舞伎で有名な八百屋お七もここで処刑されたようです。
その火炎台も残されていました。
 
 驚いたのは、江戸時代の約220年で10~20万人ここで処刑されたとのことで、1年で2000人とすると、1日3人処刑とはかなり多いかと思います。
江戸に入る人たちに罪を犯さないように、見せしめとして東海道脇にさらし首が置かれたようです。
供養塔等がかなりありました。
なお、このさらし首を見たくない旅人は、かなり遠回りをして江戸へ向かったようです。

次回は磐井神社編です。

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コメント (2)
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