今回紹介する「本の読み方」という本は、本当の読書とは単に表面的な知識で人を飾り立てるのではなく、内面から人を変え思慮深さと賢明さとを持たらし人間性に深みを与えるものなので、そのためにはゆっくりと読むスロー・リーディングに徹することが重要で、読書は速さや量ではなく質を上げるものということについて、その読書法など分かりやすく書かれています♪
特に以下について書かれています♪
・読み直すことは大切
・スローリーディングは受験にも活用できる
・読書は読み終わった時にこそ本当に始まる
・読書はコミュニケーションのための準備である
・文章のうまい人と下手な人との違いは助詞・助動詞の使い方にかかる
・大切なのは読書では立ち止まって「どうして?」と考えてみること
・一冊の本をじっくりと時間をかけて読むこと
・小説家は本を読むのが遅い
・音読ではなく黙読すること
・文章がうまくなるには書き写す必要はない
・人に話すことを想定して読むこと
・できれば読んだ本の内容を外国人に外国語で説明できると良い
・同じ作家の違う時期に書かれた内容を比較することも有意義
・気になる箇所に線を引いたり、印をつけたりすると内容の理解が一段と深まる
・小説を読む楽しみは自分だったらどうすると考えること
・同じ一冊の本でも自分がそのとき置かれている状況や意識のあり方で面白さがまったく違う
・本は再読することに価値がある
そしてこの本が特筆なのは、具体的に以下の小説を引用してスローリーディングの肝を具体的に説明していることですね♪
この実践は素晴らしいと思います♪
特にカフカの「橋」や夏目漱石の「こころ」についてはナルホドと思いましたね♪
・夏目漱石「こころ」
・森鴎外「高瀬舟」
・カフカ「橋」
・三島由紀夫「金閣寺」
・川端康成「伊豆の踊子」
・金原ひとみ「蛇にピアス」
・平野啓一郎「葬送」
・フーコー「性の歴史Ⅰ 知への意志」
本の読み方という本は、スローリーディングの大切さについて分かりやすく解説され、しかも実際の小説を引用した解説もあり理解を深め、とてもオススメです!
以下は本書のポイント等です♪
・ロラン・バルトは、すべての真面目な読書は「読み直すこと」だといっている。これは必ずしも二度目に読むことを意味するのではない。そうではなくて、構造の全体を視野に入れて読むことだ。言葉の迷路をさまようことを、方向を持った探求に転じるのだ。
・スローリーディングはたとえば受験勉強にも応用可能である。実を言うと私は高校生のとき、国語のテストの点数があまり良くなかった。自分ではいっぱしの文学好きのつもりだったし、どうしてだろうとずっと考えていたが、あるときふと気がついた。私はテスト問題の本文と設問とを切り離し、本文の作者の意図を理解しようと努めていたのだ。たとえばテスト問題で小林秀雄の作品が取り上げられているとする。普通は誰もが、本文を読んで、小林秀雄が何を言いたいかを考えるだろう。そしてそれに沿って設問に答える。ところが、私なりにこうだろうと考えて書いた答案は、しばしば×だったり、点数の低い△だったりした。私は腹立ち紛れによくこれは採点者の解釈の方が間違っているんじゃないのか?と考えたりした。実際に、模範解答に納得できないことも多かった。けれど、そんなことを言ってみたところで、いつまで経っても悪い点をもらうばかりである。そこで私は、腹を決めてテストの度に模範解答及び解説をスロー・リーディングすることにした。そしてテストというものがどういうものなのか遅ればせながら気がついたのである。国語のテストをスローリーディングするとするなら作者とは誰だろうか?先の例で言えば決して本文の作者である小林秀雄ではない。当然のことだが、問題制作者である。学校の国語の教師、予備校の模試制作者、大学の入試制作者などである。そこで、あるときから私は、本文と設問とを一続きの文章として読むことにした。本文として小林秀雄の文章があり、それを読解することが、設問を通じて求められているというのではなく、問題制作者が、小林秀雄を引用しながら彼の主張をしている、と発想を転換したのである。これに気がついてから、私の私の国語のテストの成績はまたたく間に上昇した。なぜ、小林秀雄がえらばれているのか、なぜこの部分があえて取り上げられているのか、なぜこの場所に線が引かれているのか、それは要するに受験者にどういう回答を期待しているからか・・・。そうして徹底して制作者の視点でテスト問題を読んでいくと、何を答えるべきか、非常にはっきりしてくるのである。仮に、どうも、設問者の小林秀雄の解釈が間違っているように感じたとしても、自分が正しいと思う小林秀雄の解釈を答案で書いてみたところで仕方ない。×をもらうのがオチだ。国語のテストとは、そういう正確のものではないのである。あくまで、問題制作者の理解がどういうものであるかを考える。
・それでは鬱憤が溜まるじゃないかと思われるかもしれないが、これも一つの訓練である。こうしてまず第一に、相手の主張を正確に理解するクセをつけておけば、社会に出て人と議論しなければならない状況に置かれても、冷静な対処ができるからである。まずは、どんなにおかしな主張だと思っても、じっと我慢して、相手の発言をスローリーディングする。そして自分に発言の機会が巡ってきたならば、反論する前にまずは、テストで培った能力を活かし、「つまり、こういうことですね」と、相手の主張を丁寧に要約し、余裕があるならば、その不完全なところまで補ってやる。その際に「今のは非常に重要なご指摘です」などと、一言付け加えておけば角も立たない。要するに、相手にそちらの主張はちゃんと理解していますということを伝えるのである。その上で、今度は、「しかし~」と続け、全力で自説を展開するのである。そうすれば、単なる粗野な闇雲な反論者というのではなく、相手にもまた傍目にも、本当の意味で聡明な人として尊敬を集めることであろう。
・一ヶ月に本を100冊読んだとか、1000冊読んだとかいって自慢している人は、ラーメン屋の大食いチャレンジで、15分間に5玉食べたなどと自慢しているのと何も変わらない。速読家の知識は、単なる脂肪である。それは何の役にも立たず、無駄に頭の回転を鈍くしているだけの贅肉である。決して、自分自身の身となり、筋肉となった知識ではない。それよりも、ほんの少量でも、自分が本当においしいと感じた料理の味を豊かに語れる人のほうが、人からは食通として尊敬されるだろう。読書においても、たった一冊の本の、たった一つのフレーズであっても、それをよく噛みしめ、その魅力を十分に味わい尽くした人のほうが、読者として、知的な栄養を多く得ているはずである。
・読書という行為は、読み終わった時点で終わりというのではない。ある意味で、読書は読み終わったときにこそ本当に始まる。ページをめくりながら、自分なりに考え、感じたことを、これからの生活にどう生かしていくか。読書という体験は、そこで初めて意味を持ってくるのである。速読は読書を読み終わった時点で終わらせてしまう読み方である。しかしスローリーディングは読書を読後に生かすための読み方である。
・読書は、コミュニケーションのための準備である。自分の考えをうまく人に伝えられないと悩む人は多いが、いきなり人前に出て、考えてもみなかった事態に対して、何か意見を言ってくれと言われても、難しいのは当然である。読書は、そうした現実に備えて、様々な状況を仮想的に体験させてくれる。そして、スローリーディングを通じて、そうした中で、自分だったらどう感じ、どう行動するかをじっくり時間をかけて考えておけば、思いがけない事態に直面したときにも、気負わず、普段、考えている通りのことを言えばいいのである。一冊の本を読むという体験は、誰にとっても同じものではない。独善的にならず、まずは作者の意図を正確に理解し、その上で自分なりの考えをしっかりと巡らせることができれば、読書はその人だけの個性的な体験となる。スローリーディングは個性的な読書のために不可欠な技術である。
・文章のうまい人とヘタな人との違いは、ボキャブラリーの多さというより、助詞、助動詞の使い方にかかっている。
・誰でも知っている通り、「私はリンゴが好きである」という文章と、「私はリンゴが好きではある」という文章とでは、ニュアンスに差がある。前者ははっきりとした断定であり、後者はそれよりも、若干の留保が感じられる言い回しだ。たとえ、明示されていなくても、「好きではある。(が、・・・)」と、それに続く何かがほのめかされている。この見落としは小さくない。前者には、リンゴを贈って素直に感謝されるだろうが、後者には恐らく別のもののほうが喜ばれるだろう。
・文章がうまくなりたいと思う人は、スローリーディングしながら、特に好きな作家の助詞や助動詞の使い方に注意することをおすすめする。それでリズムがガラリと変わるし、説得力も何倍にもなる。また、メールのような短い文章を書くときにも、助詞や助動詞への配慮は、相手への印象をまったく違ったものにするだろう。
・大切なのは、立ち止まって「どうして?」と考えてみることだ。本というのは、そういった疑問を持った瞬間に、そういう疑問を持った人にだけ、こっそりとその秘密を語り始めるものなのだ。疑問を持ったら素通りせず、ましてや一方的に本の欠陥だなどと決めつけずに、虚心にその一節に耳を傾けてみよう。たとえ、そのときには理解できなくても、そうして気に掛けることで、その一節は読後も記憶に残り続け、何年か経ってから、「ああ、ずっと不思議だったけど、あれはそういうことだったのか!」と理解できるときが訪れるものである。そのとき初めて、長い時間をかけて、作者の最も深い場所から発せられた声は、読者に届くのである。
・常に「なぜ?」という疑問を持ちながら読むこと。これは深みのある読書体験をするための一番の方法である。そして読者が本を選ぶように、本もまた、読者を選ぶのである。
・「金閣寺」ショックのあと、私はしばらく三島由紀夫の本ばかりを読みあさり、気がつけばすっかりファンになっていた。そのうちに今度は彼が小説やエッセイの中で言及している色々な作家のことが気になり始めた。たとえば、彼がトーマス・マンが好きだと言う。それじゃあ、マンを読んでみようと思う。マンを読むと、今度はゲーテの話が出てくる。それで、次はゲーテ。すると今度は、シラーが出てくる。それじゃあシラーと、その連鎖は延々と続いていく。また三島が別のところでドストエフスキーについて何か書いている。すると今度は、ドストエフスキー。ドストエフスキーを読むと、次はゴーゴリなどなど。三島はその意味で、まさしく私にとって読書の道順を示してくれた「保護者」だった。そして、三島が影響を受けた様々な作家の小説を読んだあと、もう一度「金閣寺」をはじめとする彼の作品を読み返すと、最初に読んだときよりも、はるかによく、その内容が分かるようになっていて、私はひどくうれしかった。そのうちに、三島を通じて出逢った別の作家のほうにむしろのめり込むようになったりして、今度は自分の読書の偏りを自覚し、それを共生するような本選びを心掛けるようになった。
・そうしたことを通じて、私は読書の喜びを知り、自分の好き嫌いを知った。しかし、それ以上に学んだことは、ある作家のある一つの作品の背後には、更に途方もなく広大な言葉の世界が広がっているという事実である。どの一つの連鎖が欠落していても、その作品は生まれてこなかったかもしれない。言葉というものは、地球規模の非常に大きな知の球体であり、そのほんの小さな一点に光を当てたものが一冊の本という存在ではないかと思う。一つの作品を支えているのは、それまでの文学や哲学、宗教、歴史などの膨大な言葉の積み重ねである。そう考えるとき、私たちは、本を先へと早足で読み進めていくというのではなく、奥へとより深く読み込んでいくというふうに発想を転換できるのではないだろうか?
・一冊の本をじっくりと時間をかけて読めば、実は10冊分、20冊分の本を読んだのと同じ手応えが得られる。これは比喩でも何でもない。実際にその本が生まれるには、10冊、20冊分の本の存在が欠かせなかったからであり、私たちはスローリーディングを通じて、それらの存在へと開かれることとなるのである。
・小説家が本を読むのが遅い理由は明らかだ。それは彼らが考えながら読むからである。重要な一節に出くわす度に、本を置いて考える。ときにはそのまま、読書を中断して、翌日までずっとものを考えていることもある。そんなことを繰り返していて、速読などできるはずがない。
・本の内容を十分に味わい尽くすことを目的としている本書は、音読はおすすめしない。スローリーディングに最適なのは黙読である。
・音読の一つの問題は、うまく読むことに意識が集中してしまい、内容への注意力が散漫になってしまうことだ。これは簡単に確かめられる。手近にある小説を5ページほど黙読と音読とで読み比べてみると、その内容の理解の差は明らかだろう。
・最近ではあまり耳にしなくなったが、昔の人は、文章がうまくなるために、志賀直哉の小説を10回も書き写したなどという話があった。学生時代に、国語の課題で名文と言われる文章の書き写しをやらされたという人もいるかもしれない。私は良いと言われることは何でもやってみるほうだから、この方法も試してみたが、すぐにこれはダメだと止めてしまった。まず第一にこれは音読と同じで書き写すという作業に集中してしまい、内容や文章については少しも理解が深まらないという難点がある。
・スローリーディングの有効な技術の一つとして、人に話すことを想定して読むというのがある。読後に誰かに説明することを前提に本を読んでいくと、分からない部分は読み返すようになり、理解する能力も自然に高まっていく。
・読書の感想をSNSに書くというのもいいアイデアだ。いざ書こうとすると必ず筆がよどむ場所がある。そこを埋めておけば、内容の全体像がしっかりと定着する。その本を紹介するつもりで書こうとするなら、まず自分自身のしっかりとした理解が必要だということが実感されるだろう。
・応用編として、読んだ本の内容を外国人に外国語で説明するという場面を想定する方法もある。これは語学の上達ということだけではなく、本の内容の理解そのものに役立つのである。英語やフランス語は、日本語よりも論理のはっきりとした言語だから、曖昧な部分を明確にしないと、うまく表現できない。私は実際、外国人と英語やフランス語で文学の話をしていて、「なんでそうなの?」と曖昧な部分にストレートにツッコミを入れられて、冷や汗をかいたことが何度もある。
・仕事などで海外に行く機会の多い人はよくご承知だろうが、外国人は、こちらの教養の程度を非常に重視する。彼らにとって、初対面の私たちは、社会のどういうクラスのどんな人なのか、ということが良くも悪くもまったく分からないから、会話がすべてということになる。そして知的に洗練された人ほど、食事の席などではシリアスな仕事の話などせず、また政治や宗教、子どもの教育問題といったケンカの火種となるような話題も避け、小説の話や映画の話などを好むものである。そのときに何でもいいから、自分の好きな本について、手短に内容が説明でき、それについての感想がうまく表現できれば相手の信頼感もグッと増すだろう。
・別の作家の本ではなく、同じ作家の違う時期に書かれた内容を比較することも有意義だ。どんな作家にも、多かれ少なかれ、思想的な変遷はある。それを辿ると、誰それはどういう作家だという単純な断定から、誰それは初期にはこういう考え方だったけど、晩年はこういう考え方に変わっていたと、作家の理解がもっとずっと立体的で厚みのあるものとなるだろう。
・スローリーディングをするときにも、気になる箇所に線を引いたり、印をつけたりする習慣をつけておくと、内容の理解が一段と深まる。特に難しい本を読むときに、この方法は有効だ。
・次に接続詞に印をつける。特に注意すべきは「しかし」だ。一般的に「しかし」という接続詞の前後は、「最終的には否定されるべき考え(多くは世間で了解されている常識的見解)」→「しかし」→「作者の意見」という文章の組み立てになっている。「人は~と言うだろう。しかし実際には~じゃないのか」といった具合である。だから、「しかし」という接続詞が出てきたときには、そのすぐあとの部分に注目すると、作者の主張がよく理解できる。それが視覚的にすぐに分かるように「しかし」を例えば囲んでおけば、ページの中の論理構造が一目で確認できるようになる。もちろん、「だが」や「が」「けれども」「しかしながら」といった逆接の接続詞はすべて同じように考えてよい。
・また「第一に/第二に」や「一つに/また一つに」「そもそも/加えて」「まず/それに」などは、並列的(あるいは補助的)に事実を列挙した部分であるから、やはり〇などでチェックしておくと論点を整理し、かつ網羅できる。
・その他、「そして」のような論理展開を示す接続詞、「だから」という結論を導く接続詞などを「気にとめながら読む習慣を身につけると、漫然と文章を辿っていくだけでなく、ページをその都度、チャート化sながら把握してゆくことができる。
・読書、とりわけ小説を読む楽しみは、自分だったらどうするだろう?と考えてみることに尽きる。登場人物に感情移入したとか、共感したとか、いろいろな言葉で人はその感覚を表現している。「自分が主人公と同じ状況に置かれたら、どうするだろうか?」「自分なら、どんな対処をするだろう?」そうしたことを考えながら読むことは、そのまま人生の様々なシチュエーションに対応するためのトレーニングとなる。
・同じ一冊の本でも、自分がそのとき置かれている状況や意識のあり方で、面白さはまったく違ってくる。学生のときに読んで、少しもその良さが分からなかった本が、社会人になってみると、身にしみてよく分かるだとか、幸せな恋愛をしている頃には、厳しい見方をしていた不倫の恋を描いた小説が、同じ境遇になってみると、涙なしには読めなくなったりと、読後の印象は、決して一貫性のあるものではない。自分にとって本当に大切な本を、5年後、10年後、と折に触れて読み返してみる。その印象の変化を通じて、私たちは自分自身の成長のあとを実感するだろう。そのときに、かつて記した傍線や書き込みは、自分自身の関心の記録になる。昔はこんなところに妙に感動してたんだな、とか、こっちのほうが大事なのに、ここには何の印も付いてないなとか、様々な発見があるだろう。そのときには、書き込みの線の歪みや文字の勢い、そういったものすべてが当時の自分を振り返らせる手掛かりとなるのである
・同じ映画を何度も見る人はいるが、同じ本を何度も読む人はだんだんと少なくなってきている。しかし本は「再読」することに価値がある。読む度に、新しい発見をし、新しい自分自身を発見する。そうした付き合い方ができれば、本は人生のかけがえのない一部となるだろう。