おぢのニセコ山暮らし

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「戦艦大和」の沖縄特攻は、「思いつき」だったは、さすがに驚いた

2021年04月08日 | Weblog

午前5時半になりました。

曇り空のお天気でデッキは少しばかり白くなっております。

サッと雪が降ったようで、先ほどからまた降り出した。

寒く感じる朝ですが、気温はマイナス2度。

春の淡雪です。

さて、

毎日新聞電子版が、きのうから「戦艦『大和』沈没から76年 無謀な『水上特攻』の真相」を前後編で掲載しております。

栗原敏雄さんという、大和を20年以上取材している記者のレポートだ。

1945年の4月7日は戦艦大和が沈没した日だそうな。

「水上特攻部隊」として出撃したけど、乗員3332人のうち、生還したのはわずか276人だったそうな。

生還した海軍の兵士は1割に満たないのだ。

大和は1941年に総工費1億3780万円で建造されている。

これは当時の国家予算の6%で、現代で言えば6兆円になるというから、とんでもない巨費だった。

兄弟艦の武蔵も造ったから2隻で12兆円だ。

アベノマスクの比ではない。

この背景は、同年代ならご存じの人も多いけど、日露戦争で日本海軍がロシアのバルチック艦隊を破ったあの日本海海戦の成功体験だった。

ようするに、「主力艦同士が砲撃によって勝敗を決するという戦術思想」

敵艦の砲弾が届かない位置から、その巨砲で一方的に攻撃する、いわゆる「アウトレンジ戦法」だ。

これは明治時代に通用した。

ところが昭和の太平洋戦争の主役は、飛行機を発着させる航空母艦を基幹とする機動部隊に移っていた。

実際、日本海軍による真珠湾の奇襲の成功は、図らずもそれを証明したわけだから皮肉だ。

記事はこう書いておる。

「『大和』は、誕生の時から時代遅れの巨大兵器だったのだ」

真珠湾攻撃で、アメリカの主力艦隊をせん滅した日本海軍だけれど、国力のあるアメリカは次々に艦隊を建造。

そんな国力がない日本海軍は大和と武蔵を温存した。

そして戦争末期の1944年10月に大和と武蔵はそろってフィリピンの最前線に投入された。

そこで武蔵を筆頭に多数が撃沈された。

後編の記事では、1945年4月6日に出撃した大和による「沖縄水上特攻」が記されている。

この艦隊は「裸艦隊」だったそうだ。

ようするに航空機の援護がない艦隊のことをいうそうだ。

実際にはわずか10機がたった4時間護衛しただけだった。

真珠湾を襲うなど、一時は世界最強だった「機動部隊」もすでに崩壊していたのだ。

そして米軍の雷撃機131、爆撃機75、戦闘機180の計386機が大和に襲いかかる。

386機もの航空機ってところが凄いし、戦闘後の米軍の被害は計10機、戦死したのはたった12人。

一方、大和の乗員3332人のうち、生き残ったのは276人というからぼろ負け。

6日に出撃し7日に撃沈だから、なすすべのない悲劇的な大惨敗だった。

その後、第2艦隊から批判の声が上がったという。

戦闘のあとに作成される「戦闘詳報」にこうあるという。

「戦況逼迫セル場合ニ 兎角焦慮ノ感ニカラレ 計画準備ニ余裕ナキヲ常トスルモ 特攻兵器ハ別トシテ 今後残存駆逐艦等ヲ以テ此(こ)ノ種ノ特攻作戦ニ成功ヲ期センガ為ニハ 慎重ニ計画ヲ進メ事前ノ準備ヲ可及的綿密ニ行フノ要アリ 『思イツキ』作戦ハ精鋭部隊(艦船)ヲモミスミス徒死(とし)セシムルニ過ギズ」

現代語に訳すと「沖縄水上特攻は、ばたばたと慌ただしく決めた『思いつき』の作戦だった。その結果、精鋭が無駄死にした」とあるという。

アベノマスクもどう考えても思いつきだよなぁ~

今回のコロナ対応を見るにつけ、今も昔もニッポン国は変わっていないのだと、情けなくもなる「戦艦大和」の現実なのでした。



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