今日は1月27日に行われたジオパークガイド講習第3回「それぞれの噴火体験」の様子を報告します。
(夢中になってメモっていたので、写真が1枚しかありませんがお許しください~。)
島民の噴火体験もジオパークの大切な財産…その体験から学ぼう!という目的の講習。
今回の参加者は36名でした。
講師として話をして下さった三田さん、沖山さん、白井さんの、それぞれのお話の中から、
印象に残った事を報告します。
三田さんのお話(当時大島温泉ホテルのバス運転手)
「噴火が始まってから観光客が増え、温泉ホテルの山側の部屋は満室だった。これは観光客が増えていいぞ、と思っていた。割れ目噴火が起こった日は40名の客を乗せて山に向かっていた。一時間ごとぐらいに大きな地震があって、風圧を感じ変だと思っていた。バスのお客様に三原山を見てもらおうと指をさしたとたんに、指の先で割れ目噴火が始まった。」←ここ、かなりうけてました。その時バスに乗っていた人は、三田さんを魔法使いだと思ったのでは?
このあと異なる情報に翻弄されて、バスを南部から北部へ往復させた時の臨場感あふれる話が続きました。
「当時自家用車は1台も走っておらず、バスだけだったので混乱はなかった。これは島民の協力があったからで、島の良さだと思う。」という話が印象的でした。
「噴火の時40台あったバスが今は20台、そして運転手は13名。」という話も切実…。
災害の時にどうやって人を運ぶのか、みんなで考え知っておく必要があることを痛感しました。
、
沖山さんのお話(当時保育園園長)
「大島の溶岩はカルデラからあふれ出すことはないと聞いていたので、噴火が始まっても心配していなかった。6日後に割れ目噴火が起こり、元町港の桟橋から山肌に赤い溶岩が流れるのが見えたが、その先がどこに行っているのかわからなかった。色々なうわさが流れていた。バック一つで元町から船に乗ったが、いつ戻れるのか島はどうなるのかわからず、みんなと一緒だということが唯一の救いだった。」
その後沖山さんは、24時間丸見えのプライバシーのない避難生活にも屈せず、約2週間後には都内8か所の避難所で臨時の保育所を開設。帰島前日までの13日間、保育所を続けられたそうです。
「これも大島の合同保育で保育士同士の協力体制ができていたから、できたことだと思う。」というお話が心に残りました。
噴火体験の話しの中には、様々な問題点と共に“島社会の良い面”も色々と出てきました。
白井さんのお話(当時NTT)
緊急時の通信網がどのようになっているか、当時情報伝達がどのようになっていたかや消防団と警察との連携がいかに大切かなどを話してくださいました。
ところで今回の講習の参加者の中で1986年の噴火を経験している人は18名、ちょうど半分でした。
その方達の何人かにも、話をしていただきました。
その中の「一万人が一万通りの経験をしている。職業、年齢、性別などおかれた立場によってそれぞれの噴火体験がある。」という言葉は、たぶん参加者全員が感じたことだったのではないでしょうか?
そして「写真や本をバックにつめて逃げた。火山セミナーをやっていたから慌てなかった。」という言葉も、とても印象的でした。
そう、何が起こっているかわからないと、わかっている時の何倍も恐いですよね。
わからないと、なす術がないですから…。
この先、地面がドスンドスンと突き上げるように大きく揺れて、もしかしたら目の前で赤い火柱を見ることがあったとしても、(活発な火山島に住んでいる限り、そういう日は来るのでしょうけれど)その現象の意味や対処方法などを知ることで、感じる恐怖の質も量も違うような気がしました。
この日の講習でそれぞれの方の噴火体験を聞いたことで、ただ理論で防災の必要性を学ぶよりずっと身近に、その必要性を感じたのでした。
今回の講習で聞いた皆さんのお話をガイドの時に紹介すれば、大島を訪れた人たちにより身近に“生きている火山”を感じてもらうこともできるでしょう。
「ジオパークはみんなで作っていくもの。」そのことを、ますます強く感じた講習でした。
(カナ)
(夢中になってメモっていたので、写真が1枚しかありませんがお許しください~。)
島民の噴火体験もジオパークの大切な財産…その体験から学ぼう!という目的の講習。
今回の参加者は36名でした。
講師として話をして下さった三田さん、沖山さん、白井さんの、それぞれのお話の中から、
印象に残った事を報告します。
三田さんのお話(当時大島温泉ホテルのバス運転手)
「噴火が始まってから観光客が増え、温泉ホテルの山側の部屋は満室だった。これは観光客が増えていいぞ、と思っていた。割れ目噴火が起こった日は40名の客を乗せて山に向かっていた。一時間ごとぐらいに大きな地震があって、風圧を感じ変だと思っていた。バスのお客様に三原山を見てもらおうと指をさしたとたんに、指の先で割れ目噴火が始まった。」←ここ、かなりうけてました。その時バスに乗っていた人は、三田さんを魔法使いだと思ったのでは?
このあと異なる情報に翻弄されて、バスを南部から北部へ往復させた時の臨場感あふれる話が続きました。
「当時自家用車は1台も走っておらず、バスだけだったので混乱はなかった。これは島民の協力があったからで、島の良さだと思う。」という話が印象的でした。
「噴火の時40台あったバスが今は20台、そして運転手は13名。」という話も切実…。
災害の時にどうやって人を運ぶのか、みんなで考え知っておく必要があることを痛感しました。
、
沖山さんのお話(当時保育園園長)
「大島の溶岩はカルデラからあふれ出すことはないと聞いていたので、噴火が始まっても心配していなかった。6日後に割れ目噴火が起こり、元町港の桟橋から山肌に赤い溶岩が流れるのが見えたが、その先がどこに行っているのかわからなかった。色々なうわさが流れていた。バック一つで元町から船に乗ったが、いつ戻れるのか島はどうなるのかわからず、みんなと一緒だということが唯一の救いだった。」
その後沖山さんは、24時間丸見えのプライバシーのない避難生活にも屈せず、約2週間後には都内8か所の避難所で臨時の保育所を開設。帰島前日までの13日間、保育所を続けられたそうです。
「これも大島の合同保育で保育士同士の協力体制ができていたから、できたことだと思う。」というお話が心に残りました。
噴火体験の話しの中には、様々な問題点と共に“島社会の良い面”も色々と出てきました。
白井さんのお話(当時NTT)
緊急時の通信網がどのようになっているか、当時情報伝達がどのようになっていたかや消防団と警察との連携がいかに大切かなどを話してくださいました。
ところで今回の講習の参加者の中で1986年の噴火を経験している人は18名、ちょうど半分でした。
その方達の何人かにも、話をしていただきました。
その中の「一万人が一万通りの経験をしている。職業、年齢、性別などおかれた立場によってそれぞれの噴火体験がある。」という言葉は、たぶん参加者全員が感じたことだったのではないでしょうか?
そして「写真や本をバックにつめて逃げた。火山セミナーをやっていたから慌てなかった。」という言葉も、とても印象的でした。
そう、何が起こっているかわからないと、わかっている時の何倍も恐いですよね。
わからないと、なす術がないですから…。
この先、地面がドスンドスンと突き上げるように大きく揺れて、もしかしたら目の前で赤い火柱を見ることがあったとしても、(活発な火山島に住んでいる限り、そういう日は来るのでしょうけれど)その現象の意味や対処方法などを知ることで、感じる恐怖の質も量も違うような気がしました。
この日の講習でそれぞれの方の噴火体験を聞いたことで、ただ理論で防災の必要性を学ぶよりずっと身近に、その必要性を感じたのでした。
今回の講習で聞いた皆さんのお話をガイドの時に紹介すれば、大島を訪れた人たちにより身近に“生きている火山”を感じてもらうこともできるでしょう。
「ジオパークはみんなで作っていくもの。」そのことを、ますます強く感じた講習でした。
(カナ)