浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

差別

2011-07-27 13:35:50 | 日記
 差別的な意識は、様々なかたちで存在する。こういう説明の仕方は問題ではあるが、たとえば成績の良いある生徒が、より低い生徒に対して優越意識を持つという感情。しかしこれは一過性であり、問題にすべきことではない。差別的な感情は、日常的な生活をしているなかで、生まれては消え、消えては生まれる。

 ところが、継続的に、社会的に行われる差別というものがある。これを、社会的差別と呼んでいるが、これについては背後に必ず公的権力の、差別を肯定する言説や制度がある。それがあってはじめて、人々は後ろめたさを感じずに差別的な感情を維持し、時にはそれを表出する。

 韓国などコリアンに対する差別意識は、「韓流」ドラマの浸透や韓国のミュージシャンらの活躍によって、継続的な、社会的な差別としての差別ではなくなってきているのではないか、と思っていた。

 インターネットで、日仏会館が行った国際シンポジウム「移民と国境」のレポートを読んでいたら驚くことがあった。レポートの報告者、辛淑玉(シンスゴ)は在日の3世、コンサルタント業を営んでいる。著書も多く、各方面で活躍されている。

http://www.shinsugok.com/

 さてそのレポート中に、辛さんの会社などに「朝鮮」に対する差別意識を背景にした迷惑電話などがかかってきていたが、それらは匿名であった、ところが、2000年から変わった、実名でファックスやメールで「外国人は出て行って欲しい」とはっきりというのだそうだ。堂々と、自分自身の素性を明かして「外国人は出て行け」と言うようになったという。そのきっかけは、石原都知事の「三国人発言」(「大きな災害が起きた時には三国人、これは朝鮮人に対する差別語です。三国人がまあ物騒なことを起こしかねないからその時は自衛隊が出てきて始末してくれ」(辛さんのレポートを引用)と、2000年4月陸上自衛隊練馬駐屯地での記念式典で自衛隊員に語ったもの)であるというのだ。

 東京都知事という権力機関の長が、堂々と差別発言をする。つまりコリアンに対して公然と差別することを公然と肯定したのだ。一般大衆は自信を持って、差別発言をおこなうようになったのである。

 韓流が一般的になったからといって、「朝鮮」に対する差別意識は、社会的差別として存在している。辛さんのレポートは、そのことをはっきりと教えてくれた。
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鄭甲寿『〈ワンコリア〉風雲録』(岩波ブックレット)

2011-07-27 10:15:13 | 日記
 昨日図書館で借りてきた。ブックレットなのですぐに読める。

 戦後静岡県の「在日」の問題について、文を綴らなければならない。そういうとき、ただ単に過去に起きた事実を並べるだけでは、それは歴史にはなるが、生きた歴史にはならない。どういう問題意識を持ち、どういう視覚から戦後静岡県の「在日」の問題に切り込むか、それを考えるためには、現時点での「在日」が抱える問題を共有する姿勢が求められる。

 そのために借りてきた本の一つである。

 本書は副題に「在日コリアンたちの挑戦」とあるように、日本に住むコリアンが、本国は南北に分離され対立をしているが、それだからこそ、〈ワンコリア〉をめざして何ができるのかを示したものだ。

 著者は、そういう問題意識をもって、ワンコリア・フェスティバルを開催する。1985年のことだ。しかし日本に住むコリアン、難しい問題がある。本国が南北に分断しているが故に、「在日」の組織も民団と朝鮮総連と分断され、対立をしている。それを超えて一緒に〈ワンコリア〉をめざす「祭り」を企画したのである。未来をめざしながら、「語るだけでなく歌ったり踊ったり」する「闘っているようにみえない闘い」を開始したのである。
 その歩みは、下記のHPに紹介されている。

http://hana.wwonekorea.com/ 

 新鮮な問題意識や感覚で、多くの人々に分け隔てなく向き合って運動をつくっていく、その姿はきわめて清新である。

 なぜこのような運動が必要か。それはただ単に日本にコリアンが住んでいて、そのコリアンの祖国が南北に分断され対立している、その対立が日本のコリアンにも影響を及ぼしている、というだけではない。日本に住むコリアンには、常に「差別」という問題がある。

 言うまでもなく、日本人による「差別」である。鄭はこう書く。

 「差別とは人間を優劣の関係においてとらえ、優が劣を蔑む、見下すことだと思います。もちろん、誰が優で誰が劣かは力のある者が決めるわけです。その意味で差別は権力関係でもある」と。

 差別は権力関係であって、泡のように生まれたり消えたりする差別は一過性のものであって、継続される差別、つまりコリアンに対する差別など(これを私は社会的差別と呼ぶ)は、公的権力が差別を肯定することによって社会的差別となると考えている。だから社会的差別は、まさに公的権力=「力のある者」がつくるのである。

 そういう難問を抱えながらも、フェスティバルは今も続けられている。

 「在日」の彼らは、自らの存在をよりポジティブに捉えようとしている。自らを「ディアスポラ」として、そのような存在であるからこそ、現代の世界的課題にもっとも関わることができるのではないかと。

 ポジティブにしてくれる本である。

また、ワンコリアフェスティバルというものが毎年開催されていることを知っただけでも、この本を読んだ意味があった。

コメント (1)
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